「四谷怪談」を読む(七)伊東喜兵衛

前回、「共同体の総意」という言葉を使ったが、総意といっても、亡き又左衛門の遺志も当事者たるお岩の遺志も確認しない、いわば隣近所の善意の押しつけである。お岩はこれを断固としてはねつけた。その結果、小股くぐりの又市という斡旋仲介のプロの手を借りて伊右衛門が婿入りしてくるのだが、このあたりの話は端折る。お岩を外に奉公に出し、浪人に跡を継がせるという「同組の者共」の案は、お岩の異議申し立てによりいったんは頓挫したが、この案を巧みに実行に移した人物、伊東喜兵衛(後に隠居して土快)の話をしたい。というのも、この伊東喜兵衛こそ、『四ッ谷雑談集』の主人公ではないかと思ったからだ。
『四ッ谷雑談集』を読んだ方なら、伊東喜兵衛の人物像が、鶴屋南北の芝居『東海道四谷怪談』の伊藤喜兵衛とずいぶん違うことに驚くのではないだろうか。「芝居」の伊藤喜兵衛は、孫娘(お梅)可愛さにお岩に毒を盛ってまで伊右衛門を孫娘の婿に迎えようとする老人で、お岩の亡霊による復讐劇がはじまるやあっさり殺されてしまう。ところが、『雑談』の伊東喜兵衛は、傲慢で嫌な男だが悪党の色気のようなものを漂わせており、どこか憎みきれないところもある。現代の俳優でいえば、例えば佐藤浩市とか、村上弘明とか、堤真一あたりが演じるとピッタリくるような気がする。阿部寛でもいいけど(好きな俳優を並べただけです)。
そして、登場人物が次々に死んでいくなかで、お岩追放劇を仕組んだ張本人であるにもかかわらず、物語の最後まで生き残って八十九歳の長寿をまっとうするなど、『雑談』に登場する人物のなかでも異彩を放っている。
『雑談』中巻が「悪逆無道」と呼ぶ伊東喜兵衛の所業が描かれるのは、実際には上巻であるので、上巻からその悪党ぶりを読みとってみたい。

三宅弥次兵衛組与力

「三宅弥次兵衛組与力伊東喜兵衛は生れ付放逸にして仁の道とは交合の事と悟り、礼法とは神祖の開帳の節出す宝物とのみ格別相違の了簡」であったという。
まず伊東喜兵衛は三宅弥次兵衛組与力として登場する。与力は上級管理職である旗本の下で同心たちを統率する中間管理職で、収入は貧乏旗本を上まわることもある。たいてい、一つの組に五、六名いて、戦時には八人から十人ほどの同心を率いる小隊長である。喜兵衛は明暦三年(1657)から寛文三年(1663)まで御先手組頭の任にあった三宅弥次兵衛正勝の部下で、同組の同心であった田宮又左衛門の上司という立場にある。
なお、高田衛氏はこの三宅弥次兵衛を、寛文十一年から翌十二年まで御先手組頭を務めた息子の正忠とする(『お岩と伊右衛門―「四谷怪談」の深層』)が、その時期は諏訪左門の御先手組頭在任期間と重なっているため、これはありえそうにない。ありえるとしたら、この『雑談』の書き手、または書き手に情報を提供した語り手が、左門町の御先手組の事情に通じていかったため取り違えた場合である。そしてその可能性なら大いにある。
先に私は、失踪したお岩が再び人々の前に姿を現したのが三十年後だったという『雑談』の記事に注目し、そこから逆算して、お岩失踪は寛文十年前後だと想定した。同じことを『雑談』の書き手もしていたとしたらどうか。『雑談』の書き手も三十年後という伝承にこだわって累事件が起きた寛文十二年頃をお岩失踪の時期に想定し、その頃の御先手組頭を探して三宅弥次兵衛正忠の名前を拾った。あるいは、左門町の関係者に、寛文の頃に三宅弥次兵衛というお頭はいましたかと尋ねるくらいのことはしたかもしれない。左門町の人は、三宅様なら寛文の頃のお頭でしたと答えただろう。『雑談』の書き手はそれで納得してそれ以上突っ込まなかった。こうして寛文三年まで左門町の御先手組頭だった父・三宅弥次兵衛正勝と、寛文十一年から一年間、別の組の頭だった息子の三宅弥次兵衛正忠が取り違えられたということは、ありそうなことである。この件はまた後で蒸し返す。

悪逆無道

さて、伊東喜兵衛は「生れ付放逸」だったという。放逸とは規範を外れていることだから、よく言えば天衣無縫、自由闊達だが、悪く言えばわがまま勝手である。もちろん『雑談』では放逸を後者の意味で使っているが、前者のニュアンスもかすかに感じられる。この放逸の具体的な内容は、「仁の道とは交合の事と悟り、礼法とは神祖の開帳の節出す宝物とのみ格別相違の了簡」とある。「仁の道とは交合の事と悟り」とは、愛ってセックスのことでしょという意味だが、五代将軍綱吉が儒学をことさらに重んじ、生命への愛をといて生類憐れみの令を出すかたわら、女あさりに励んだことを思いあわせると、なかなか皮肉が効いていると言える。
「礼法とは神祖の開帳の節出す宝物」とは、『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』では「神棚や仏壇の飾り」と訳したが、昨日、お盆休みで実家に帰って、母がお盆にしか使わない先祖供養用の漆塗りの食器をうやうやしくとりだすのを見て、ああこれかあと得心した。飾りといえば、礼樂は飾りだという主旨の文が中国の古典のどこかにあるはずだ(漢籍に詳しい人が教えてくれるのを期待する)。
このように実に割りきった考えから「他人を嘲り一向人を痛る事を好」んだという。実利をともなわない仁義だの礼節だのを重んじる人が馬鹿に見えてしかたがなかったのだろう。気に入った者、つまり有能な部下については高く評価し、気に入らない者、つまりは実利よりも仁義や礼節を重んじる者については些細な仕事の失敗を手厳しく咎めて退職に追い込んだというから、有能かも知れないがあまり上司にいてほしくないタイプの男である。この点を『雑談』は「諸事依怙贔屓強、常々人の非を云て慰にし、傍輩共に対し過言慮外度々」と評している。人事が不公平で、気に入らぬことにはあけすけに罵倒するタイプの上司だったのだろう。かなり恨まれていたようである。
この他の性格描写としては「透間かぞへのゑせ物」(抜け目なく人の弱みに付け込む)、「心強悪人」(神経が太すぎる)、「勝れて強気成男」、「元来こらへぬ男」とある。口八丁手八丁、気が強くて短気のイケイケオヤジという印象だ。周囲にいたらかなり気疲れするタイプである。これが伊東喜兵衛の「悪逆無道」の実態である。
伊東喜兵衛についてはまた続きを書く。