明治維新のイメージ

明治国家をデザインした思想というものがあったのだろうか。
例えば、イギリスにおけるロック、フランスにおけるルソー、ドイツにおけるフィヒテのような、政変に先立って、実現すべき国家体制を予言者的に提唱した思想家が思い当たらない。
水戸学、陽明学、洋学、国学などが幕府の御用学問だった朱子学に対抗したことは知られているが、どれも決め手に欠くように思われる。
例えば、吉田松陰などがもてはやされるが、彼の影響は長州閥に限られる。長州が維新の原動力かというと、客観的にはそうではない。軍事面では薩摩藩こそが主力だったのであり、そしてその中心人物・西郷隆盛明治新政府とたもとを分かって西南戦争で敗北したことは、明治国家が西郷が事前に抱いていたイメージと違うものであったことを示してはいないか。
幕藩体制に不満を抱いていた維新の志士たち、と一口に言うが、彼らが抱いていたとされる不満とは具体的にどんなものであったのだろうか。そして、その解決案としてどんな未来像をもっていたのか、どうも腑に落ちない。
しばらく考えてみたが、結局、幕藩体制-封建制の廃止、中央集権国家による国防強化によって欧米に対峙する。カタカナで言い直すと、強いリーダーシップのとれる政府によってグローバル化に参入する。このあたりが公約数であって、当時の文脈で言えば、公武合体論が落としどころだったのは衆目の一致するところであった。
ただ、幕府がそれを実行するためには既得権益層となっている親藩譜代の士族たちを説得しなければならなかったけれども、当時の幕府にはその力がなかった。阿部伊勢守殿が急逝しなければ何とかなったものを。口惜しや。
そのため、水戸学や国学といった異端思想にかぶれた若い世代が、閉塞感に対する反動から過激化していき、その運動を海外事情を知った開明派の大名や復権をねらう京都の公家たちが利用して、ついに倒幕に至ったというところだろう。
倒幕したと言っても、明治政府の中堅官僚は旧幕府の実務官僚が横滑りしている場合が多い。新政府を作ってそれからどうするという具体的なプランがなかった証拠である。
なしくずし、泥縄なんである。
だから、体制派も反体制派も、近代政治思想らしいものが出てくるのは維新後からであって、幕末には水戸学と、佐久間象山-吉田松陰ラインくらいしか思想らしいものはない。
それらすべての結節点に勝海舟がいるわけだが、勝先生の座談の放言をすべて真に受けるわけにもいくまいが、実務の要請をこなしているうちに、その工夫の積み重ねの先に時代の趨勢が見えて、コウするより仕方ないということでアアなすったようだ。
以上、あくまでも時代劇的想像力によるイメージである。史実がどうだったかはわからない。