高時天狗舞

 北条高時が凡愚であったという記事は『太平記』だけではないので史実であったのだろう。そうだとしても極悪非道の暴君というわけではない。病弱で政治にあまり熱心ではなかったという程度であって、鎌倉幕府は北条一門による集団指導体制をとっていたから、それで政務が滞るということはなかったようだ。
 『太平記』の「相模入道田楽を好む事」(第五巻4)の記事は、高時の暗愚さを印象的に描いている。
 当時、京都で田楽が大流行だと聞いた高時は、田楽の一座を鎌倉に呼んで、これに夢中になった。ある晩、酔った高時が自ら田楽舞を踊っていると、どこからか十数名の田楽一座の者があらわれて、高時とともに舞い歌った。これが実に面白かった。しばらくしてから歌の調子が変わって「天王寺の妖霊星を見ばや」と歌いはやした。高時の屋敷に仕えていた女中が、あまりの面白さに障子の穴からのぞいてみると…、田楽一座の踊り手と思っていたものは一人も人ではなかった。あるものは口ばしが曲がり、あるものは背に翼をはやした山伏姿で「ただ異類異形の怪物どもが、姿を人に変じたるにてぞありける」。驚いた女中の通報で高時の舅が駆けつけてみると、化け物どもはかき消すようにいなくなり、座敷には高時一人が酔いつぶれて寝ていた。天狗でも集まっていたのか、畳の上には鳥獣の足跡が残っていた。
 かつての公共放送で『太平記』がドラマ化されたときには、高時役の片岡鶴太郎が鬼気迫る名演を見せた名場面だからご存知の方も多かろう。だがこの記事にしても、天狗だの妖霊星だのといった不吉なシンボルを取り去れば、高時という人はダンスが好きだったんだなあとそれだけである。
 高時の道楽としては田楽のほかに闘犬も挙げられている(第五巻5)が、これも武家らしい趣味で、そのために政治を誤ったとか、財政がひっ迫したというわけではない。ただ、犬が噛み合うさまが戦闘を予感させて不吉だというにすぎない。
 天狗は『太平記』ではもっぱら後醍醐方として登場し、新田義貞の蜂起を越後の新田一族に報せてまわったり(第十巻3)、後醍醐の息子・大塔宮の怨霊は自ら天狗となって足利一門の内紛を画策したり(第二十六巻2)している。だからもし高時と踊った天狗たちが後醍醐方のスパイであれば、高時に取り憑き乱心させて幕政を混乱させるなりすればよいのに、『太平記』にそういう記述はない。