「四谷怪談」を読む(二十二)伊東土快

当初は年内に終わらせるつもりだったが、とてもできそうになくなったので、せめて上巻だけでも終わらせて、それで一区切りとしたい。
お岩失踪はいつの頃か。「文政町方書上」(「書上」)では貞享の頃(1684-87)とされているが、これまで何度も指摘してきたように、『四ッ谷雑談集』(『雑談』)の記述にそって考えると寛文の終わり頃である。決定的なのは「夫より諸人色々と尋けれ共、元禄十三年中迄三十年の間終に見へざりける」の一行で、この通りなら元禄十三年(1700)から逆算して、寛文十年(1670)前後に失踪したことになる。
ちなみに、寛文十二年(1672)には『死霊解脱物語聞書』で知られた累事件が発生している。累事件はお岩伝説を語る際のモデルとなっているから、『雑談』の作者としてもこのあたりの時期を意識したということはありそうなことだ。

風流人・土快

お岩失踪から数年後、伊東喜兵衛は傳左衛門という男を養子にして家督と、喜兵衛という名を継がせて隠居し、自らは土快と名乗る。「書上」では「土慎」となっているが、本稿では『雑談』の表記にしたがって、以後、この人物を伊東土快と呼ぶ。土快の養子になって伊東家を継いだ二代目の伊東喜兵衛、「書上」では元の名を池田伝左衛門という男こそ『雑談』中巻で語られる多田三十郎の事件(元禄七(1694)年)とお岩伝説を結び付けるキーパーソンなのだが、彼についてはまた別の機会に譲る。ここでは隠居して土快と名乗った初代の伊東喜兵衛に注目したい。
『雑談』では、お岩が失踪した次の章で、隠居した喜兵衛、伊東土快が伊右衛門一家と大久保で花見をする場面を描く(「伊東喜兵衛隠居 并西向天神にて花見の事 付頬借組之者共喧嘩之事」)。
散りはじめた満開の桜の下で、土快は妾四人(!)と従者二人、伊右衛門一家四人とともに花見を楽しむ。妾四人については『実録四谷怪談』の注でふれたので、伊右衛門一家四人の内訳を考えてみる。本文からわかっているのは伊右衛門と後妻のお花である。後の二人は誰か? 土快は与力の隠居だから小者と呼ばれた従者くらい雇っていただろうが、同心の伊右衛門はそれほど豊かではない。お岩と暮らしていた頃には女中を一人雇っていたようだから、そこから考えて後の二人はお花が産んだ娘お染と、その子守りを兼ねて雇われていた女中というところではないかと想像する。
土快はお花を伊右衛門に嫁がせるにあたり、自らの妹分としたので、そのお花の娘お染は義理の姪にあたるが、『雑談』も「書上」もこの子は実は土快の実子であるとしている。そうであれば実の娘だから、目に入れても痛くないほど可愛がったろう。実際、この場面ではないが、『雑談』でも土快がお染を可愛がったという記述がある。
家族同然の面々に囲まれて花見に興じる土快は得意の絶頂であったことだろう。現代の、特に核家族をモデルとした家族観からすると違和感もあるが、土快としては一族を引き連れて花見に興じる家長の役回りを存分に楽しんだものと思われる。
土快の引き連れてきた妾たちは、それぞれ琴、三味線、小唄など芸能を身につけていた。ちなみに彼女らは妾=愛人というよりはおそらく芸者のような出張コンパニオンだったのではないか。与力の隠居で妾四人は経済的に無理だし、彼女らはこの後一度も出てこない。お花のあとをついで伊東家の家政婦も兼任していたはずのお梅でさえも、この花見で「梅が声は能れ共三味線ならず、お留は三味線は上手なれ共声能からず、思ふ様成事こそなきは気の毒なれ」と土快にからかわれたのを最後に姿を消すのである。
ついでだが土快はお梅をからかいながら最近流行の半太夫節がいい(頃日時花半太夫節和にて能れ)と言っているので、この場面は半太夫節の流行った貞享のころを想定していることがわかる。
ともあれ土快は上機嫌で、扇を片手に喉を聴かせた。
「鳴は瀧の水日は照共、不絶とうたりゝ(とうたり)、春の花、金玉は花吹風に響添て、伽陵頻迦も舌を巻、菩薩も爰に来迎か」
この謡(?)の出典は調べがつかなかった。芸能史に詳しい人のご教示を乞う。
土快の幕(江戸時代の花見は幕を引きまわして座を囲った)の周りには風流人たちが集って、さながら大宴会になった。

首切り浅右衛門

土快ら一行の花見に招かれざる客が闖入してきた。頬借組(かおかしぐみ)を名乗る三人の浪人者である。三人組に因縁をつけられた土快は彼らの一人を幕の外まで投げ飛ばして撃退している。このくだりは痛快時代劇のようで面白い。
おそらくこの場面は先行する伝承を持たないフィクションだろうと思う。オリジナリティはまったくなく、登場人物の名前さえ変えれば、歌舞伎の一場面だと言われても納得してしまうほどだ。妾たちや腹心の伊右衛門一家を引き連れて花見を楽しみ、売られた喧嘩に快勝するこの場面の土快は、まさに歌舞伎のヒーローである。
あえて言えば、この場面は『雑談』作者の土快像をよくあらわしているとも言える。『雑談』は「伊東喜兵衛は日に添奢増長して諸事依怙贔屓強、常々人の非を云て慰にし、傍輩共に対し過言慮外度々なれば」云々と傲慢を非難しているが、この場面の土快は、明るく開放的な性格で色好み、風流を解する豪傑として描かれている。いわゆる「かぶき者」のイメージで、『花の慶次』とかに出てきそうなキャラクターだ。
こうしたことから、『雑談』作者は、かぶき者の系譜を引く旗本奴をモデルに土快の人物像を描いているものと思われる。頬借組の三人もまた旗本奴をモデルにしているのだろう。ちなみに旗本奴は貞享三年に幕府によって一斉検挙されて壊滅しているので、この場面の時代設定は貞享一年か二年ということになる。
さて、土快に因縁をつけた三人のうちの一人が山田浅右衛門だったという。山田浅右衛門の素性と末路は、花見の場面に続く短い章「山田常右衛門被切事 付山田浅右衛門自害之事」で描かれている。この章は『近世実録全書』には収録されていないので、さわりのところだけ底本から引いておく。

浅右衛門は常右衛門同類の由次第に露顕しける故其罪遁れがたくや思けん、腹かき切て死けり。されば此浅右衛門は日頃据へ者切事を好み常右衛門をも弟子にして様し物の時は出て多の人を切けるに依て悪行積り、終には六十を越て我と己か皺腹を切て報に程を顕しけるこそ恐しけれ。伊右衛門花見に出し時も気色弱見られなば事六ヶ敷可成に、さも強勢成土快にしたたかに当られ、終には其意趣を返し得ず己と滅しけるこそ実に天の責なるべし。

山田浅右衛門」は浪人の身分ながら公儀御様御用、つまり試し斬りの役を勤めた山田家の当主の名で数代にわたり継承された。通称・首切り浅右衛門のことである。ここに登場したのはおそらく初代の貞武(1657-1716)だろうが、旧悪が露見するのを恐れて切腹したということがあったかどうかはわからない。氏家幹人大江戸死体考―人斬り浅右衛門の時代 (平凡社新書 (016))』によれば山田家の当主はその家業からさまざまなゴシップのネタにされたというから、これも似たようなものだろう。
『雑談』作者がここで山田浅右衛門を登場させたのは、二つの理由が考えられる。第一はこの『雑談』が書かれたとおぼしき享保年間(1716‐1735)の読者を意識しただろうということ。初代の貞武は何人もいた公儀御様御用の一人だったが、享保の頃に活躍した二代目の浅右衛門吉時から公儀御様御用は山田家が独占した。将軍徳川吉宗に旗本にとりたててくれと言いそびれたという逸話があるのも二代目の吉時である。山田浅右衛門=公儀御様御用、つまり首切り浅右衛門のイメージが確立したのは享保の頃のことで、『雑談』作者は同時代の読者に向けて話題を選んだのだろう。

土快の「強勢」

第二の理由は、伊東土快の強さを強調するためである。この後、『雑談』中巻・下巻では、登場人物が次々に死んでゆき、その原因が失踪したお岩の恨みによるものとされて、お岩伝説が語られることになるのだが、伊東土快(初代喜兵衛)は数えで89歳の長寿を全うしたことになっている。お岩の祟りが本当なら真っ先にターゲットにされてもよさそうなものなのに、「悪逆無道」と諸悪の張本人のように描かれた人物が長生きしたのではかっこうがつかない。そこで土快がなかなか死なない説明が必要になる。それが土快の強さである。「強勢」という語には、単に肉体的強さだけでなく気力精神力や運勢の強さも含まれているのだろう。土快は、首切り浅右衛門と恐れられた山田浅右衛門より強かった、だからお岩の怨霊もなかなか執り殺すことができなかった、という伏線のつもりだろう。
しかし、鶴屋南北東海道四谷怪談』では伊東喜兵衛はお梅とともに真っ先に祟りを受けている。その方が物語としてはすっきりする。『雑談』作者もそうすればよかったのにそうしなかったのはなぜか。おそらくそうできなかったのではないか。つまり、実際に土快は長生きして、『雑談』の書かれた享保の頃まで存命だった。いくら実録が虚実とり混ぜての小説だとしても、すぐにばれるうそはつけない。つい最近まで生きていた人を何十年も前に死んだことにはできない。そこで土快の「強勢」を強調して、お岩の怨霊といえどもおいそれとは手が出せなかったことにしたかったのではないか。
ここから、『四ッ谷雑談集』の成立について空想を広げてみれば、この物語はもともと、享保の初め頃に死んだ土快老人の破天荒な前半生についての噂話が発端となってふくらんだのではないか。
「あの爺もついにくたばったか」
「若い頃はずいぶん無茶をやったそうだね」
「それについてはこういう話がある…」
こんなふうにして語りだされた伊東土快の一代記を枠物語としてお岩伝説をまとめたのが『四ッ谷雑談集』であるような気がする。
以上で、『四ッ谷雑談集』上巻の読みどころのご紹介を終わる。中巻と下巻については、またの機会にということにしたい。