アガンベン『ホモ・サケル』より、善の端初

アガンベンホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』(以文社)の冒頭で、アリストテレス政治学』を引きながら述べている文章を読んでいて感じたことがある。本書でアガンベンの論じていることと直接の関係はないかもしれないが、思いついたので書き留めておく。
アガンベンは生命・生についてのビオスとゾーエーというギリシア的区別について注意を促したあと、アリストテレスは「ゾーエーがそれ自体善であるという意識をきわめて明晰に表現している」と指摘する。
アガンベンが引いているところを孫引きする。

しかし人々は、単に生きるということのためにも集まり、政治的な共同体を維持する。それは、生きるということ自体の内にもおそらく何がしかの善があるからなのだろう。

アリストテレスは論証しているわけではない。この後に続く、まるで苦しい生の内にも至福の日があるかのようだというのも、人々は苦しい生にしがみつくという観察にともなう感慨である。
生きること自体の内にもおそらく何がしかの善があるのだろう、とは、そうとでも思わなければなぜ人間が生きているのかがわからなくなるからなされた憶測にすぎないが、アリストテレスにとってはそれで充分だったのだろう。
逆に、生のうちになんらの善、この「善」は広い意味の善、もなければ、生き物はただちに生きようとすることをやめるだろうから、この憶測は論証する必要がない。
ただし、あえて解釈するならこういうことは言えるだろう。
生きること自体の内にもおそらくあるだろう何がしかの善とは、生き続けること(死なないこと)ではないし、その逆でもない。出生や死亡は、生の開始と終了という事実であって、生にとっての条件ではあるが、善悪とは関係ない。善と悪とは、ここでは広い意味、喜ばしいものと避けられるべきものという程度の意味である。
生きること自体の内に何がしかの善があるとすれば、悪とは、生きることを阻害するものを指す。死亡それ自体は生命にとっての事実であって悪ではないが、生の活動の阻害をもたらすもの、病気や貧困や飢餓や殺害などは生にとって避けられるべきものという意味で悪である。
生それ自体のうちにある善とは、単なる生という概念が抽象的なので、これら悪から逆算されるばかりで積極的に定義することはできない。だからアリストテレスも、おそらく何がしかの善があるだろうという表現にとどめたのではないか。それは都市化・文明化された社会の倫理にとっては、原始的な観念であって、道徳的な善悪の端初のようなものだったのだろう。