罵詈雑言欲求が激しくなりすぎたので、ちょっとお休みしている間に編集画面が変わっていた。
別に凝ったことをしようとは思わないのでどうでもいいや。
昨日は、会合で遅くなる予定だったので、妻には三千円を渡して「これでお買い物するなり、お店で食べるなりしてね」と言っておいたのだが(私的な生活費は私が管理している)、会合が終わって家路につくやいなや携帯が鳴り、「お腹空いたよう」。
妻の仕事も立て込んでスーパーが開いている時間に帰れなかったらしい。一度家に帰ったらコンビニに行くのも面倒くさくなったとのこと。
仕方なく深夜まで開いているスーパーによって買い物をしラーメンをつくる。
具にチャーシュー、もやし、青ネギ、といった定番の他に、思いつきで軽くゆでたオクラを添えてみる。
好き嫌いはあるだろうが、案外美味しかった。

古本市にて

昼飯を食べに外に出たら、早稲田大学で古本市をやっていた。
和辻哲郎倫理学』の古い版を探してみたのだが見つからず、結局以下の三冊を買った。
浄土三部経』上下揃い浄土三部経〈上〉無量寿経 (岩波文庫)浄土三部経〈下〉観無量寿経・阿弥陀経 (岩波文庫)
日蓮文集 (岩波文庫 青 305-1)
宮地尚子トラウマの医療人類学
いつ読むかは未定。
ちなみに『浄土三部経』は、見つからなくなったので買ったのだが、家に帰ったら以前買ってあったものが出てきた。
ま、「片づけられない男」の人生なんてそんなものよ。

伝統についてなのですが…。

中年オヤジにふさわしく仏教書などを読んでいると、各宗の祖師はそれぞれに教相判釈(?)をしていますよね。それによって、釈尊以来の歴史のなかでの自己の正統性を主張します。我こそは釈尊の法の正統な継承者であるというように(でも実際は選択的継承ですが)。
うろおぼえですが世阿弥の『風姿花伝』の冒頭にも、自らの芸が過去の優れた芸を継承してきたものだというように、正統性を主張している箇所があったような記憶があります。
伝統に無自覚に依拠した考え方を批判するときに、政治家や流行評論家の言うところの「伝統」は近代の産物で云々、という批判はすぐにでも思いつくし、たいていそれで当たっているのですが、自らの正統性を主張するために過去の文化の継承を言う言説は、何も近代だけの専売特許ではなく、近世以前にもあった。記紀神話だって王権の正統性を言うために編纂された。
他にもいくらでも例は挙がるでしょう。だとすると、伝統を盾にとる意見に対して、「それは近代の産物」という決まり文句を投げかけるだけでは、今ひとつ物足りない。これはちょっと考えておくべき事柄ではないかと思うのです。
継承の正統性をもって自説の優位を主張する言説の意味について、もう少し長いスパンで考えられないか。