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ソクラテスパイドロスの二人連れは、おそらくギリシアの神々を祀る社と思われる木陰で腰をおろし、ソパイドロスはクラテスの求めに応じてリュシアスの恋愛論を語り始める。真剣な恋愛は一種の狂気であるがゆえに、自分を愛する者よりもむしろ愛さない(正気の)者にこそ身を委ねる方が賢明である、というのがその主旨である。
その後、「リュシアスの話の内容よりも、もっとたくさんの、もっと価値のある別の内容」(p30)の話をパイドロスに乞われたソクラテスは、「顔をかくしてから話す」(p33)とことわったうえで話し出すのだが、その冒頭はつぎのようである。
「さらば、しらべ高きムゥサの神たちよ、いざ、われをみちびきたまえ。おんみら、そのうた声のしらべ高き性ゆえに、リゲイアイの名を得たるとも、はたまた、そは楽に生くるリギュスの族の名のゆかりなるとも。−いざや来たりて、わが物語るをたすけたまえ。」(p33)
この詩神への祈祷もまた儀礼的なものかも知れず、せいぜいが受験の際の合格祈願やスポーツ選手の縁起かつぎなどと同じような習俗ととらえることもできよう。だが、ソクラテスはこうして話し出した物語の途中でつぎのようなことを言い出す。
「−それはそうと、親愛なるパイドロス、どうも自分ではそんな気がするのだが、君には、ぼくがなにか、すっかり神がかりの状態におちいっているように思えないか。
 パイドロス まったくおっしゃるとおりに、ソクラテス、あなたはいつもに似合わず、なにか流暢な調子にとりつかれておられます。
 ソクラテス では黙って静かに、ぼくの話を聞いているんだよ。ほんとうにここは、神のすみたまう土地のように見うけられるもの。こういう場所がらだから、もしひょっとして話が先に進むにつれて、ぼくがニュンフに乗りうつられたとしても、驚いてはいけないよ。なにしろ、現にいまでも、ぼくの語り方は、もはやディテュランボス調からほど遠からずというところなのだから。」(p37)
ディテュランボスというのは、酒神ディオニュソスの祭で歌われる神がかった歌で、ニーチェによれば「人間の心はかきたてられ、そのいっさいの象徴能力が最高度に発揮される。ついぞかつて感じられたことさえないものが表現されようと押し迫る」ようなものだったらしい(悲劇の誕生 (中公文庫 D 2-2)p19)。
こうしてみると、はたしてソクラテスが神話・伝説上の事柄について「一般にみとめられているところをそのまま信じる」ことにしているのは、「われみずからを知る」という「肝心の事柄についてまだ無知」であるのだから、そうしたことの真偽を詮索する暇がないだけなのだろうか、という疑問が再び頭に浮かぶ。もちろんこれもリュシアス批判に熱弁を振るうための言い訳なのかも知れない。神聖な場所の雰囲気に酔ってついつい言葉に熱がこもってしまった、というようなことは考えられる。そうだとしても、ソクラテスはその場所の雰囲気を、神聖なものとして感じ取っていたことにはなる。