教師はやはり世間知らずだったのか

教育の現場に密着した諏訪の発言にはなるほどと思わせるものがあるのだが、そこから社会を論じはじめるととたんにアラが見えてくるのが残念だ。
例えば諏訪は「オレ様化」した青年たちを「市民社会的な子ども」と評しているが、消費主体としてのみ個が確立し、市民社会の主体としては未熟である、というのならともかく、市民社会=経済社会=消費社会という等式は無前提にいえることではあるまい。
学校の実情を知らない人権派による「「学校を市民社会と同じにせよ」という学校攻撃」(p18)にウンザリしただろうことは想像できるが、あまりに乱暴である。
教育界の常識と世間の常識は違う、とはよく言われることだ。これは一般に(世間では)教師は世間知らずだ、とか、学校は特殊な世界だ、とかいう意味でいわれる(そこから「学校を市民社会と同じにせよ」という暴論も出た)が、それを逆転して見せたところに諏訪の面白さがある。世間は学校知らずなのだ。親も教育論をぶつ識者も学校という世界を知らない。世間の人々は自分という一個人が生徒・学生だったときの教育された経験と最近のデータをいきなり比較して、近頃の教育は、などというが、諏訪のようなベテラン教師たちからいえば、それは現場の実情を知らない空論である。
本書の後半部は、宮台真司和田秀樹上野千鶴子尾木直樹村上龍水谷修ら、近年教育について発言してきた識者の子ども観を取り上げて検討している。なかでも『夜回り先生夜回り先生で知られる水谷の実践についての評価が面白い。諏訪は水谷について「氏の真の姿は街に現れた聖者なのであり、「神」なき「神」の代理人である」「これはもはや教育ではなく、「神」による救済のような営みなのである」という。ここに諏訪の教育観がよくあらわれている。教育とは個が個を救うことではなく、子どもを大人にするための社会の営みなのだ。だから諏訪は次のように言う。

子どもの「個」が自ら必要と思い、何を学ぶのかを自ら希望できるためにはすでに文明の「知」を所有している必要がある。そうなっていないから「学ぶ」必要があるのである。だから、本当はまず共同体的な教育として子どもたちに「社会が必要と判断しているもの」を学ばせ、そのプロセスのなかで「自らが必要とし、望むもの」を学べるように支援していけばいいのである。(p86)

これは教育という営みの本質であり、実にまっとうな正論である(ちなみにアーレントも『過去と未来の間で』ISBN:4622036487ことを言っていた)。このように学校という現場に密着したところから語り出す諏訪の提言には耳を傾けるべきものがある。
しかしながら、次のような文章には違和感を感じる。

子ども(生徒)たちの変容をめぐる議論が成立しにくいのは、社会の進歩や成熟に比例して「個」もより近代的に、より洗練された近代的個人に自然になるとわたしたちが思いこんでいるところにあろう。(中略)そこにまたぞろ顔を出すのは「日本はまだ真の近代化を達成していない」「日本は文化的に遅れている」などと訳知り顔に言いたがる一群の知性たちであり、控え目な日本の平均的な知的主体たちは日本の戦争責任のこともあって、「やはりそうなのかな」と後退してしまうのである。こういう私たちの負性からどこかで抜けだしたいと私は思っている。(p38)

諏訪のいうような「日本は文化的に遅れている」などという素朴な進歩史観を奉じている人が、今時どこにいるのだろうか?実はいることはいる。私もそうした人を知らないわけではない。しかし「控え目な日本の平均的な知的主体たち」、つまり多数の人々を「「やはりそうなのかな」と後退」させてしまうほど影響力もないし、数も多くない。それどころか、日本は常任理事国入りをめざして当然の一等国だし、日本文化は伝統においても先端においても世界に誇れるものだし、戦争責任などもう済んだことだ、というのが、現在の影響力のあるマジョリティの感じ方ではないのか。たとえ、それが本当の多数派ではなかったとしても、少なくとも「控え目な日本の平均的な知的主体たち」に、これが今の世の流れだ、と思わせる程度には影響力を持っている。こうした風潮を諏訪が過小評価しているとしたら、教師はやはり世間知らずだったのか、と思いたくなる。