子どもの変化

諏訪は1980年代に「子ども(生徒)のありようが大きく変わった」と言う。表題の「オレ様化」は、その子どもの変化を言い表す言葉である。
子ども(生徒)たちが「学ぼうとしなくなり」「自分を変えようとしなくなった」、「修業をして一人前のおとなになろうとしなくなった」、これが「オレ様化」の顕著な兆候である。オレ様はすでに一人前の大人である以上、もはや自分に興味のないことを学ぶ必要性など感じない。そうであれば学級崩壊も学力低下もごく当たり前の現象だろう。著者は戦後日本社会は共同体原理の強い農業社会的段階から、産業社会的段階を経て、80年代には消費社会的段階に入ったと仮定する。消費社会では「情報メディアとお金の発するメッセージによって子どもは社会的に自立(一人前のおとな、生活者になる)するまえに、すでに「個」を「消費主体」として自立させている」。「オレ様化する子どもたち」とは、市民社会における個の資質(シティズンシップ)を身につけないうちに、消費主体として立ち上がってしまった子どもたちのことなのである。

オレ様化」するということは、自己を他の自己と比べて客観化することがむずかしくなり、自己(への感覚)に閉じこもりだしたということであろう。(p11)
「自分がこう思う」ことはみんなも思っているに違いない(あるいは、思うべきである)と子どもたちは確信している。これが「オレ様化」した子どもたちの真実のひとつである。(p52)
どうやら私語の注意も彼らには全人格を否定したかのように受け取られるらしいということがわかってきた。それくらい彼らの自我は「外」からの攻撃に弱くなっていたのであろう。「オレ様化」したというゆえんである。昔の生徒の自我より脆くなったのである。(p55)
誰にとっても自分は自分にとって「特別」だが、他人の目からはそうではないことを昔の子どもたちは知っていた。「消費社会期」の子どもたちは自己の「特別」を平気で特権化してしまった。自分とほかの生徒(子ども)とを比較しなくなったのも、自己の特権化(これは子どもだけでなく「消費社会期」の人間的特徴のひとつであろう)が進んだ結果、自分とほかの子ども(生徒)がユニット(単一の形)として同じものという意識も消えてしまったとも考えられる。(p59)
人はそれぞれ他人には理解されないような「私そのもの」といった感情や確信を持っている。(中略)ふつう、そういう「私そのもの」に、ほかのみんなと共有性を持つ市民とか個人という仮面(ペルソナ)をかぶって人は生きてきたと考えられる。「オレ様化」してきた新しい子ども・若者たちは、そういう近代的な個人としての能力に欠けてきているのではなかろうか。(p63)

自分を他と比較しないでほしい、自分を他と横並びの一人としてではなく、比類なき特別の存在として扱ってほしい、ということなのだろう。そういう子ども(というか青年)が増えているのはわかる。私が中・高の生徒だったときも少数ではあるがいたし、職場の教育係として新人アルバイトを指導した折りにも出会った。正直に言ってかなり手を焼いた。その割合が圧倒的に増えて多数派となっているということだろう。