七夕の夜の講演

昨夜は知人に誘われて、飯田橋日仏学院カトリーヌ・マラブー氏の講演を聞きに行った。
ちょうど、刊行されたばかりの『ヘーゲルの未来』(未来社)のあまりの難解さに閉口していたところだったので、講演でも聴けば少しはわかるかと甘い期待をいだいて会場に向かったのだが、私が着いたときには驚いたことにすでに満席で立ち見もチラホラ。講演が始まる頃には会場の通路や階段も聴衆でぎっしり。いかに小さなホールとはいえ、日本ではまださほど名が知られているとはいえない哲学者の話を聞きにこんなにも人が集まるとは予想していなかった。

ヘーゲルの未来―可塑性・時間性・弁証法

ヘーゲルの未来―可塑性・時間性・弁証法

マラブー氏は現在フランスで活躍中の哲学者。デリダの高弟で、ヘーゲルハイデガーの研究から出発して、可塑性を中心テーマに脳からグローバリズムまで幅広いテーマで論陣を張っているという。ちなみに私のパートナーと同じ歳だ。
講演そのものは、『ヘーゲルの未来』の訳者、西山雄二氏の流暢な同時通訳と、藤本一勇氏の日本の聴衆を意識した司会によって段取りよく進行していた。西山氏の通訳ぶりは見事でよどみがない。聞けばフランス留学時にマラブー氏に師事していたという。とすると『ヘーゲルの未来』の難解さは訳が悪いのではなく、ほんとうに難しいというわけか。
講演と討論は専門家以外の聴衆も意識したもので、著書に比べればわかりやすいのだろうが、なにぶんもともとの内容が難しいものなので私ごとき素人にはとても歯が立たない。下手な要約をして恥をかくのも悔しいのでここでは触れないことにする。
最後に出た質問、(故デリダやあなたのような批判的)哲学的言説は今やマイナーなものになったのではないか?に対するマラブー氏の回答が印象的だったので、それだけ忘れないうちに書き留めておく。
「確かに哲学はマイナーになりました。しかし、私はこの点はドゥルーズに賛同して言いますが、哲学とはマイノリティのものなのです。哲学はもはや解放を約束したりはしません。そのかわり現代の哲学は意味を為す、意味を行為するのです。」
マラブー氏の著書は『ヘーゲルの未来』のほかにも訳本があるし、早晩、専門の研究者が『現代思想』誌か『情況』誌で紹介することだろうから、真面目な哲学ファンはそちらをご覧あれ。

わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

私にとっての収穫は、ともあれデリダはちゃんと読まなければ最近の哲学論議にはついていけない、ということがよくわかったこと。

天使が舞い降りた

会場の熱気にあてられて、少し気分が悪くなったのでロビーでグッタリ休んでいると、フランス語の子どもの歌が聞こえる。
見ると五つか六つくらいの坊やと十歳前後の少女の二人連れが遊んでいた。
いや、可愛いのなんのって!天使が舞い降りたような、という形容はこの子たちのためにあるかと思ったほどだった。金髪の巻き毛の坊やはクマのぬいぐるみを片時も離さず、同じく金髪でもサラサラ・ストレート・ロングヘアの美少女にかまってもらってお行儀よく遊んでいる。
おお、この光景は、まるで萩尾望都竹宮恵子のマンガのようじゃないか!などと思っていると、クマのぬいぐるみを抱えた坊やがトコトコと私の方にやってきて話しかけた。もちろんフランス語である。フランス語で言っていることはわかるのだが、なんと言っているのか聞き取れない。

実は学生時代の語学はフランス語だったのだが、私は根っからの語学音痴で、文法の授業ではあの動詞の変化で早々とつまずき(やった人ならすぐにわかってもらえると思うがフランス語の動詞の変化はすさまじい、それもよく使う動詞ほど不規則ときている)、会話の授業では先生から「キミの発音はポルトガル語(ほかにもギリシア語とかアルメニア語とかいろいろ言われた)に近い」と嗤われ、購読の授業はテキストの訳本『方法序説』、『ペロー童話』、『ランボー詩集』を丸暗記して乗り切らざるを得ない始末(お陰でデカルトと昔話と近代詩には少し詳しくなった)。今でもアクサン記号のある横文字を見ると脂汗が出る。

嗚呼、こんな可愛い坊やに話しかけられる機会がめぐってくるとわかっていたなら、もっと真面目に勉強しておけばよかった、と悔やんでもあとの祭り。
しかし、その子らは本当に天使だったのだろう。
奇跡が起きたのである。
私を見上げた坊やが何か言う。フランス語である。もちろん私にはわからない。ただ学生時代に悩まされた、美しいが私を拒絶する悪女のような言語の響きからフランス語であることだけはわかる。字に書いてもらったものを辞書を引きながらであればなんとか意味は取れるが、会話では無理だ。私の脳みそにフランス語を日本語に変換する機能はない。
それなのに坊やの言いたいことがわかったのだ。
「ねえ、おじさん、まだ終わらないのかな」
講演開始から一時間半が経過していた。
私は答えた。もちろん、日本語で。
「さあね、そろそろ終わるんじゃないかと思うんだけれど」
坊やがフランス語で答える。
「ママが中に居るんだよ」
「そうか、じゃあ、ちょっと様子をのぞいてみようか」
と日本語で言った私が立ち上がってホールのドアの方に歩き出すと、少女も一緒について来て「まだやっているんじゃない」とフランス語で話しかけてくる。
重いホールのドアを細く開けると、中は立錐の余地もないくらいの混雑。聴衆の背中で姿は見えないが、マラブー氏の落ち着いた話し声と藤本氏の合いの手が聞こえる。議論はまだまだ続く様子だ。
子どもたちも私の後ろからのぞき込んでいる。
少女が「終わった?」と聞くので「もう少しかかるようだね」と言って時計を示すと、坊やは肩をすくめてため息をついた。その仕草の可愛いこと。
それから二人は「おじさん、ありがと」と言ってロビーの隅にあるテレビの前に座ってフランス語放送に見入り始めた。
ほんのわずかな時間だったが、奇跡のような至福のひとときだった。
私は天使と会話したのだ。

いや、理屈はわかっている。そもそも子どもの語彙は少なく、おまけにゆっくり話してくれているから私のようなフランス語に見放された者にもなんとかわかったのだろう。
それに子どもたちと私には、早く終わらないかな、という気分が共通していた。幼い外国人の子どもが二人、夜の日仏学院のロビーで遊んでいる様子から、おそらく今夜の講演の関係者が連れてきた子どもで「終わるまで外で遊んでいなさい、でも学院の建物から出ちゃダメよ」と親御さんに言われたのだろうくらいのことはすでに想像されていた。そして、二人の置かれた状況はまさにその通りだったのである。
だから、子どもらにとっても、私にとっても、お互いの行動はすべて事前に期待されていたとおりだったのだ。そこで言葉は実際には通じていなくても、ちょっとした表情や仕草からコミュニケーションが成立したのだろう。

後で聞いた話だが、クマのぬいぐるみを抱きしめていた坊やはマラブー氏の御子息、少女は日本人M・T先生のご令嬢でお母様がフランス人のためヨーロッパ的な容姿だが片言の日本語は解するとのこと。
それを聞いて、マラブー氏の哲学はわからなかったが息子さんとは意志が通じたのでよしとしよう、と妙な満足感に浸った。

さようなら子供たち

帰りがけ、あの子どもたちにまた会った。さようなら、と言った方がいいのかな、と思いながらごく簡単なはずのそのフランス語が思い出せない。
そのうちに人波に押されて外に出てしまってから、学生時代に身の程知らずにもフランス語を勉強しようと思った最初の理由を思い出した。ルイ・マル監督の映画『さようなら子供たち』を観ていたく感激したのがきっかけだった。asin:B00005G0PD
Au revoir les enfantsと言っておけばよかったなー、あの名セリフを口にする絶好の機会だったのに。嗚呼、悔しい!