「神」が新しい権威か

そこでついでに国民国家批判の参考になるかと、数年前に買っておいた八木秀次『反「人権」宣言』を引っ張り出して読み始めたのだが、(毎度のことながら)どうにも気にかかる記述がある。

反「人権」宣言 (ちくま新書)

反「人権」宣言 (ちくま新書)

私はイギリス経験論も近代社会思想も食わず嫌いで、その両方の古典であるロックについてはまったく親しんだことがなかったのだが、つい数ヶ月前、ある人の勧めでロック『市民政府論』の初めのあたりをぱらぱらとながめてみたことがあった。その時の印象と八木氏の説くロック評価とがどうもしっくり来ない。
完訳 統治二論 (岩波文庫)

完訳 統治二論 (岩波文庫)

例えば、八木氏はロックの天賦人権論について批判的に紹介しながら次のように書いている。

人びとの権利の根拠を説明するに当たって歴史や伝統、父祖の存在に言及するのではなく、新たに「神」を持ち出し、そのことによって「権利」というものに従来は伴っていた歴史・伝統の要素を削ぎ落とした。権利の根拠として「神」という新たな権威を持ち出してきたのである。(八木、p46)

ロックが神を「新たな権威」として「持ち出してきた」とは理解に苦しむ。キリスト教文化圏で神はむしろ古い権威のはずだ。
ロックが神を引き合いに出したのは、ロックが批判しているフィルマーの王権神授説が聖書を根拠として説かれているからだろう。それは『市民政府論』の冒頭にはっきりと書いてある。
ロックはそのフィルマーの王権神授説を逆手にとるかたちで議論を展開している。ロックやフィルマーにとって聖書は反対論者も認めざるを得ない権威であるわけだ。しかもキリスト教文化圏では多くの人がその内容を知っていることが期待されてよいはずのものだ。おそらくロックの意図は、キリスト教文化圏の多くの人々に対して、反対論者も認めざるを得ないような形で自説の優位を述べることにあっただろうから、多数派文化の伝統の源泉である聖書を引き合いに出すことは有効な戦略であったろう。
そこで、王権は神がアダムに与え給うた支配権の正統な相続である、と主張するフィルマーに対して、聖書にはそんなことは書いていない、人類の始祖アダムは神から世界の支配権を与えられたわけではなかったから、その子孫たる現在の人類の誰かが世界の支配権を相続しているはずがない。仮にアダムに世界の支配権があったとしても、誰がアダムの直系の子孫かわからない以上、誰かが自分こそはアダムの正統な相続人だと主張することは出来ない、と説く。
だからロックが「権利の根拠として「神」という新たな権威を持ち出してきた」という八木氏の説は、文脈を無視した当て推量というほかない。これは神よりアダムの方が古いと言っているのに等しいから、そんなふうに言われればロックどころかフィルマーだって怒るのじゃなかろうか。聖書の神を「新たな権威」と言ってしまえる八木氏のセンスが疑わしい。