裸の王様

戦後民主主義は虚妄だ、という言説がある。それはその通りだ。戦後民主主義とそこに含まれる人権などの諸価値は、ナショナリズムと同様に虚妄である。こんなことは言い古されたことであるのに、いまだに「王様は裸だ」と叫ぶ子供たちがあとを絶えないのはどういうわけだろう。
「王様は裸だ」と指摘する役割を子供としたアンデルセンの真意がどこにあったかは知らないが、現代の状況に照らしてみると、なかなか含蓄の深いものがある。
王様の裸を指摘するのは子供なのだ、大人はそんなことはしない。大人だって王様が裸であることは承知しているが、あたかも服を着ているかのようにふるまうことでこの社会が維持されていることをわきまえているからこそ黙っている、それが大人の条件である。子供にはそれがわからない、大人は偽善者であると感じているのだろう。
ここには、純真な(=社会化されていない)瞳にこそ真実が見える、ということが前提とされている。子供性善説である。
ところで、戦後民主主義の声高な批判者たちが攻撃する戦後教育は子供性善説を基本としている。戦後民主主義や戦後教育を虚妄・偽善として否定するなら、王様の裸を指摘する子供もまた未熟として否定されなければならないだろう。
私は、戦後民主主義もそれに対抗して持ち出されてくるナショナリズムも、いずれも虚妄だと思っている。両者とも裸の王様である。だが、虚妄だからという理由で否定すべきだとは思わない。そもそも虚妄でない社会制度などあるのだろうか。例えば愛や平和や自由のように、承知のうえで維持すべき虚妄というものもある。
二人の王様がいる。二人とも裸だが、一方の王様の支配する国では「王様は裸だ」と叫んでも許されるが、もう一人の王様の国ではそれは罪とされる。どちらのほうが住みやすいか、ということだ。
大塚英志憲法力』に「『偽善」をこそ語れ」と説かれているのを読んで、ふとそう思った。