台風で忙しい。ある方への私信の一部分を転載。
大塚英志『憲法力』、お気に召していただいたようで、お薦めした甲斐がありました。
憲法力―いかに政治のことばを取り戻すか (角川oneテーマ21)
- 作者: 大塚英志
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日本の伝統文化の代表のように言われる能・狂言、茶道は室町時代、歌舞伎、柔術は江戸時代の成立であり、民謡のほとんどは江戸時代以前にさかのぼれるものはほとんどなく、福島県の民謡のように思われている「会津磐梯山」の歌のように明治になって作詞作曲されたものもある、逆に奈良・平安時代以来継承されているような文化などほとんどないに等しいということはよく知られていることです。
文化が伝統的であることの基準が古さではないとすると、はたして伝統文化とは何かという問いに正面から挑んだ好著だと思います。
日本人の親子関係は母子関係が強いとか日本は単一民族国家であるとかいったような思い込みについて、そうした「伝統」が近代以降に作られたものであることをマンガ「ベティさん」と秘密結社、母子心中、妖怪と植民地、ムー大陸と愛国心といったトンデモ本的な話題を織り交ぜながら説きすすめるその語りは飽きさせません。
そしてこの議論の延長上に出てくるのが、『憲法力』でも論じられていた「公民の民俗学」です。大塚が柳田国男からこの言葉を引っ張り出したのを読んで、私は最初、コミュニタリアニズム、あるいは佐伯啓思的なリパブリカニズムに乗るつもりなのだろうか、といぶかしく思ったものですが、結論部分で大塚が次のように主張するのを読んで納得しました。
だからこそ、ぼくは「公民の民俗学」の可能性をあらためて主張する。「群れを慕う」感情の断念から出発し、名付けられていない、定かでさえないが、しかし、それぞれの「私」を出発点とし、互いの差異を自らのことばで語り合い、それらの交渉の果てに「公共性」があるのだと考えた、昭和初頭に束の間出現した「公民の民俗学」こそが、ぼくたちが「日本」や「ナショナリズム」という、近代の中で作られた「伝統」に身を委ねず、それぞれが違う「私」たちと、しかし共に生きうるためにどうにかこうにか共存できる価値を「創る」ための唯一の手段であると考える。(大塚英志『「伝統」とは何か』p200)
頂戴したメールでは、『憲法力』や大塚が以前から提唱している憲法前文を書く試み(『私たちが書く憲法前文』など)について「一種の脱構築の実践」と評しておられましたが、引用した文はそれに通じるものがあるのではと思います(デリダはまだ勉強中で自信がありませんが)。
「公民の民俗学」というネーミングが唯一のものであるかどうかは別として、言っていることには共感します。確かにそれしか手がないだろうな、と思います。
遠回りで退屈な民主主義的プロセスを担う力は、案外と保守主義の精神に近いものがあるかも知れません。
台風対策であわただしくしております。この話題はいずれまたお会いしたときに。お借りしているフーコーもその時にお返しします。