「衆愚」という言葉

だんだん忙しくなってきて、ゆっくり本を読む時間がなくなりつつあるので、今日はちょっとした小話。
1950年代のアメリカで、マッカーシー議員による「赤狩り」旋風が吹き荒れた頃の話。

ヒトラーの財政面の手品師だったヒャルマール・シャハトはアイゼンハワーの顧問ジョン・エメット・ヒューズに向かってこう言った。「君もようやく分っただろう、ある国民が扇動政治家を追い払おうと思っても、唯いなくなってくれと念ずるだけでやれるようなものではないことが。」(『マッカーシズム (岩波文庫)』、p28-29)

「衆愚」という言葉は、自分もまた民衆の一人だという自覚を持っている人間には天に唾するようで言いづらい言葉であるし、あえてそれを発する者は、エリート主義者、傲慢、といった非難を受ける覚悟を強いられるため、禁句のようになってしまっているが、一方でヒトラーマッカーシーの跳梁を許したドイツ国民、アメリカ国民に対しては遠慮なく浴びせられる。
これはいささか卑劣なことではないのか。
自分たちの所属する社会の政治的軽薄さ、または無関心についても、やはり「衆愚」と言えるようでなければ、ナチス勃興期のドイツ国民や1950年代のアメリカ国民を笑うことはできまい。
怒るのは図星を指されたからだ、という。自己批判の意味を込めて口にされた「衆愚」という言葉に対して、傲慢だと反発する者こそ小賢しい愚衆である。してみると、衆愚批判は、それが誠実になされた場合、大衆を愚弄する気か、という反発を受けたときほど正鵠を射ていたことになるのではないか。
ただ、このことは、反発を受ける批判ほど正しい、という側面だけが一人歩きをすると異論を封じることにもなってしまうので、安易には言えない。フロイトの文章に関係する議論があったような気がするが思い出せない。
仕事を片づけてからゆっくり考えたいと思うが、そんな余裕のあるご時世でもない。どなたか賢者の御指南をいただければありがたいのだが。