もしかえられてしまったら

id:annntonio氏が、教育基本法が「もしかえられてしまったら」の将来像を描いている。
http://d.hatena.ne.jp/annntonio/20050918/1127069770
さすが専門家、居酒屋談義に向かいの居酒屋からヤジを飛ばす体の私ごときとは格が違う。

  • 誤解に満ちた未成熟な議論のまま、もしくは学術的な方法にのっとるなど納得と支持を集める反論を無視したままの改正となります。思い込みでできるほど教育にまつわる問題は簡単ではありません。にもかかわらずの改正によって、教育にまつわる丁寧な議論をしていく雰囲気全体が、しぼんでしまう=乱暴な議論がふくらんでいくかもしれません。
  • 教育条件の整備など、知恵やエネルギーを割かなくてはならないところには割かないで、「教育基本法を変えれば状況はよくなる」という漠然としたイメージだけ先行していくかもしれません。
  • 教育基本法の改正によって、近代国家の背骨のもろもろ(個人の自由や人権を保障するための憲法=国家権力の制限規範としての憲法、この意味での「法の支配」という考え方)を崩してしまうことが考えられます。
  • 法律を通じ人間にあるカテキズムをインストールする場として学校が位置づけられます。また、カテキズムの子どもへのインストールが教師の仕事と位置づけなおされます。併せて、学校は「愛国心を持っているか否か」について、教師や子どもたちが相互に行動を、彼ら相互に統制しあう場所になります(学校は「事なかれ主義」の人の集まりとなる)。学校は、過激な右翼少年の培養基にもなりえます。
  • 小さくて強い国家=けちで乱暴な国家が、教育をどうよくしていくかなどの丁寧な議論が必要な問題を、トップダウンで教育行政を通じ実施させるようになります。

「「こういう社会状況を選ぶのかどうか?」という問題として、教育基本法の改正の問題は考えられるべき」というのは、まったく同感。