ベンヤミン『暴力批判論』12神的な暴力

論理に飛躍があったら、それは鼻づまりのせいです。
ついに神話的暴力を「滅ぼすことが課題」であることが明らかになった。もっともこれはベンヤミンにとっての課題であり、私自身は同意を留保する。神話や伝説がどう扱われるべきかは、亡霊の両義性にも似たやっかいな問題を含んでおり、ベンヤミンにはその厄介さに対する視点が欠けているように思われる。
それはさておき、ベンヤミンが神話的暴力に対して持ち出してくるのは神的暴力である。

まさにこの課題こそ、究極において、神話的暴力に停止を命じうる純粋な直接的暴力についての問いを、もういちど提起するものだ。いっさいの領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。(ベンヤミン暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)』p59)

  • 神話的暴力(法を措定、境界を設定、罪をつくり贖わせる、脅迫的、血の匂いがする、ニオベ伝説)
  • 神的暴力(法を破壊、限界を認めない、罪を取り去る、衝撃的、血の匂いがなく致命的、旧約民数記の神の裁き)

デリダは『法の力 (叢書・ウニベルシタス)』において、この対立の一覧表を、ギリシア的(神話的)、ユダヤ的(神的)というマークで整理している。ベンヤミン解釈としてはなるほど、と思う反面、それはユダヤ人であるベンヤミンの気持ちにも沿ったものだろうが、はたして暴力の批判、暴力の連鎖を断ち切る力の探究という課題に取り組む上でそれだけでよいのか、という疑念はある。とはいえ、ここで私は「東洋的」などという怪しげなカテゴリーを持ち出すつもりはない。ただ、北欧の『エッダ』やエジプト神話が、ギリシア神話に置き換えられるなら、この対立は多神教的(神話的)、一神教的(神的)という対立になるだろうし、そうではなくあくまでギリシア的(神話的)とユダヤ的(神的)の二項があればよいのだということであれば、オーディンオシリスらの亡霊たちが苦情を言うだろう。

旧約聖書民数記第十六章より

ベンヤミンが神話的暴力の範例であるニオベ伝説に対して、神的暴力の範例として挙げるのは、『旧約聖書民数記第十六章に記された神の裁きである。ヤハウェは、モーセと対立したコラとその家族、縁者を含む一党に苛烈な天誅を加える。

モーセがこれらのすべての言葉を述べ終わったとき、彼らの下の土地が裂け、地は口を開いて、彼らとその家族、ならびにコラに属するすべての人々と、すべての所有物をのみつくした。すなわち、彼らと、彼らに属するものは、皆生きながら陰府に下り、地はその上を閉じふさいで、彼らは会衆のうちから、断ち滅ぼされた。この時、その周囲にいたイスラエルの人々は、みな彼らの叫びを聞いて逃げ去り、「おそらく地はわたしたちをも、のみつくすであろう」と言った。また主のもとから火が出て、薫香を供える二百五十人をも焼きつくした。(「民数記」第十六章三一節から三五節)

これも非道い。この事件については、ベンヤミンも読んでいたはずのスピノザ『神学・政治論』にも記述がある。

人民が広野に於いて暇な時を持ち始めるや否や、多くの者−−而も相当名のある人たちがこの選任に不快を感じ出し、これがきっかけになって彼らは、モーゼが神の命令に依ってではなく自分の一存に依ってすべてのことを定めたのだと信ずるようになった。何故ならモーゼは、自己の支族をすべての支族に優先して選び、大司祭になる権利を永遠に自分の兄弟に与えたのであるから。そこで彼らは反抗してモーゼに向かい、すべての者が同等に神聖なのであってモーゼが皆の者の上に立っているのは不当だと呼号した。モーゼはどんな手段に依っても彼らを鎮めることが出来なかったので、彼を信ぜねばならぬことの徴証として奇跡を行い、反抗者は悉く焼き殺された。これからして広く全民衆の新しい騒擾が生じた。民衆は、反抗者たちが神の審判に依ってでなくモーゼの術策によって殺されたと信じたからである。(スピノザ神学・政治論 下巻―聖書の批判と言論の自由 (岩波文庫)』p228、仮名遣いはあらためた)

神の審判にしろモーゼの術策にしろ、やったことは虐殺じゃないですか。穴掘って生き埋めにしたんでしょう。『史記』には、秦の将軍白起が捕虜四〇万人を生き埋めにした話があるから、数十人程度はやってできないことはない。で、そのあとコラに賛同した者二五〇人を焼殺。要するに、反モーセ派に対する大粛清の嵐が吹き荒れた記録としか私には思えない。
これは下手人が神であろうとモーセであろうと、モーセのリーダーとしての正統性を守るために行われた政治的弾圧、法維持的暴力にすぎないのではないか。何が神的暴力だ。
ベンヤミンはこの虐殺について次のように言っている。

この裁きは予告も脅迫もなく、特権者たる祭司長のやからを衝撃的に捕捉して、かれらを滅ぼしつくすまで停止しない。だが、まさに滅ぼしながらもこの裁きは、同時に罪を取り去っている。この暴力の無血的性格と滅罪的性格との、根底的な関連性は見まがいようがない。(ベンヤミン、p59)

納得できぬ。確かにモーセ派と反モーセ派が抗争を繰り広げたら無益な血が流れただろうさ。だからといって、一方の側を皆殺しにするとは!
血を流さない、とは、人を殺さないということではなかったのか。これでは世界最終戦争論とたいして変わりがないではないか。
これが神の裁きだというなら、神など要らぬ、俺はデビルマンになる。

ホロコースト

閑話休題。頭を冷やして、この件についてデリダがどう解釈しているかを探してみる。
『法の力』「第二部ベンヤミンの個人名」では七面倒くさいことをいっているが、「追記」では、はっきりとベンヤミンを批判していた。

ガス室や焼却炉のことを考えるとき、無血的であるがゆえに罪を浄めるというような一つの絶滅化作用をほのめかすこの箇所を、戦慄を覚えることなしに聞くことがどうしてできようか。ホロコーストを、罪を浄める一作用としたり、正義にかなう暴力的な神の怒りの読み解くことのできない一つの署名としたりするような解釈の着想に、われわれは恐怖で震え上がる。
まさしくこの点においてこのテクストは、それが多義的であることからくる意味の流動性を考えあわせようとも、またその意味を反転させることのできるさまざまな秘めた可能性を考えあわせようとも、やはり私には、結局のところ次のように思われる。すなわちそれは、魅惑する作用や眩惑作用にいたるまで、われわれが反対を示す働きかけや思考、行動や発言をなさねばならない当のものにあまりにも似すぎているのだ。このテクストは、これ以外のベンヤミンのテクスト同様に、私からするとまだあまりにもハイデガー的であり、メシア主義=マルクス主義的であり、あるいは始原=終末論的である。(デリダ、p194)

なるほど、ベンヤミンが神的暴力と名づけた暴力は、ベンヤミン自身もその猛威に追われて、結果として自ら死を選ばざるを得なくなったナチスユダヤ人絶滅政策と瓜二つだ。確かにガス室では血は流れない(実際に血が流れなかったかどうかが問題ではない、血を流さないための清潔な殺戮手段としてガス室が考案されたことを念頭に置いている)。
このあと、ベンヤミンはさらに不吉なことを言う。

たしかに、たんなる生命が終われば、生活者にたいする法の支配も終わる。神話的暴力はたんなる生命にたいする、暴力それ自体ののための、血の匂いのする暴力であり、神的暴力はすべての生命にたいする、生活者のための、純粋な暴力である。前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受けいれる。(ベンヤミン、p59-p60)

すなわち、神話的暴力は、法的暴力として、交換条件のある取引であり、契約であり、ゲームでもある。利害欲得のからんだ汚い(血の匂いのする)暴力である。それは取引や契約やゲームのルール=法維持のためにこそ犠牲を要求するがゆえに、暴力それ自体のための暴力である。
これに対して、神的暴力は純粋で、犠牲に対して見返りも約束も承認もない。だから犠牲も要求しない。神的暴力において犠牲はただ受けいれられるのみである。コラの一党を地が呑み込んだように。ユダヤ人がガス室に送り込まれたように。

暫定的結論

このあとも、手元の文庫本でなおまだ5ページ分の叙述が残っているが、とりあえずここで打ち切る。これまでもできるだけベンヤミンの議論の筋にそうつもりで読んできたが、ベンヤミンの神的暴力については、いまの私には否定的にしか受けとることができない。
しかし、どこまでであったかさだかではないが、途中までは学ぶところ、考えさせられるところが多く、読んでいて面白かったのは確かである。
おそらく、暴力の連鎖を断ち切る暴力、を私がベンヤミンに期待し始めたあたりで、著者と読者の波長がズレ始めたのだと思う。私が、より少ない暴力で現存の暴力全般を少なくすることを期待していたのに対し、ベンヤミンは現存の暴力全般を根絶しうる絶大な暴力を考えていた。そのズレは、ベンヤミンが『旧約聖書』を持ち出したあたりで決定的なものとなり、もはやこれ以上はつき合いきれない、と感じられた。
だから、私にはベンヤミンは理解できなかった。
このまま彼にイヤミを言い続けながら読み進むより、いったんここで別れて、私が彼の書いたものを(単に否定的にではなく)批判的に読めるだけの読者になってから、あらためて読み返した方がよいと思い、この本を閉じる。
私はベンヤミンを理解できなかった。なんだか失恋をしたような気分だ。
まあ、慰めがないでもない。これが人間相手だと、たいていはこのままサヨナラということになるのだが、書物のよいところは、こちらがその気になって頁を開けば、いつでもまた話し相手になってくれるところである。