ベンヤミン『暴力批判論』14どんでん返し

ようやく結論部分にたどりついた。
神的暴力の名のもとにひたすら暴力行使の正当化をしようとしているようにも思えてしまうベンヤミンだが、最後になって意外なことを言い出す。

暴力批判論は、暴力の歴史の哲学である。この歴史の「哲学」だというわけは、暴力の廃絶の理念のみが、そのときどきの暴力的な事実にたいする批判的・弁別的・かつ決定的な態度を可能にするからだ。(ベンヤミン『暴力批判論』p63)

これはまったくその通りだと思う。理念の価値は現実的ではないことにある。理念を現実に合わせてしまうとなし崩し的に、すべてがどうでもよくなる。「手近なものしか見ない眼では」この「暴力の廃絶の理念」の意味がわからない。従来の暴力に新たな暴力をもって対抗する程度である。この点については、歴史上、多くの革命政権が、政権奪取後に自らの掲げた理念を裏切ってきたことを想起するだけで十分だろう。
理念は掲げられ続けなければならない。現実が理念に追いつかないからといって、さまざまな理由をこじつけて理念を引き下げてしまっては意味がない。
ところが、往々にして理念への裏切りを批判する側もまた同じことをやってしまう。これも例を挙げればきりがない。そこでベンヤミンは次のように言う。

神話的な法形態にしばられたこの循環を打破するときにこそ、いいかえれば、互いに依拠しあっている法と暴力を、つまり究極的には国家暴力を廃止するときにこそ、新しい歴史時代が創出されるのだ。(ベンヤミン、p64)

さんざん七面倒なことを言ってきたベンヤミンだが、ここは明快に言い切る。煉獄の果てに夢見られたユートピアを垣間見て、謳っているような調子さえ感じられる。
ところで、いかにして国家暴力は究極的に廃止されるのか。

神話の支配は、すでに現在、そこここで破れめを見せているのだから、新しい時代は、想像もつかないほど遠くへだたっているわけではないし、法に対抗する言葉も、無効ではあるまい。(同上)

「神話の支配」、それは法措定的暴力の支配である。それは血の犠牲とその見返りによる境界の確定であった。わたしたちの時代にそれはますます強化されているように感じられるのだが、ベンヤミンは、法措定的暴力(と法維持的暴力)の支配は破綻を見せ始めている、と考えているようだ。
それはともかくとして、この破綻し始めた暴力のシステムに対抗するものとして、「言葉」が挙げられているのは注目に値する。やはりベンヤミンにとって、言語は「暴力がまったく近寄れないほどに非暴力的な人間的合意の一領域、「了解」のほんらいの領域」(p48)として期待されていたのだ。私は言語が「暴力がまったく近寄れないほどに非暴力的」だとは思わないが、それが無効であるとは思わない。むしろ、言語が無効であるなら、暴力について語ることの意味もなくなり、ただ力の行使のみが意味をもつ。問答無用の世界である。それは暴力批判論にとって望ましいものとは言えまい。これは法措定的暴力の支配が破綻しかけているかどうかにかかわりなく言えることである。
この「法に対抗する言葉」に力を与えるものが、「法のかなたに」想定される「純粋で直接的な暴力」、「人間による純粋な暴力の最高の表示」としての神的暴力であったとも考えられる。だが、それは具体的な事例として表象されることはない。

なぜなら、それとしてはっきり認められる暴力は、比喩を絶する作用力として現れる場合を除けば、神的ならぬ神話的暴力だけなのだから。暴力のもつ滅罪的な力は、人間の眼には隠されている。(同上)

ここで神的暴力ははっきりと統制原理として語られる。その意味で確かにどんでん返しである。神的暴力がいわば統制原理、あるいは批判原理であって、それ自体としては、例えばベンヤミンが挙げた「民数記」の逸話のような「比喩を絶する作用力」としては現れずに、神話的暴力として現れるのであれば、次のようなことも当然である。

純粋な神的暴力は、神話と法が交配してしまった古くからの諸形態を、あらためてとることもあるだろう。たとえばそれは、真の戦争として現象することもありうるし、極悪人への民衆の審判として現象することもありうる。

私はこの点に関してはベンヤミンの言うことはもっともだと考える。だからこそ、言語観において、ベンヤミンとは異なり、言語もまた暴力性を帯びていながらも、むしろそのゆえに、戦争や民衆の審判と同じような資格において、言語がそれ自体神話的暴力の一種でありながら法に対抗しうる場合もあるのだと考える。
もちろん、だからといって戦争や民衆の審判や、それらよりはマシであるにしても言語の暴力性が批判を免れるわけではない。

しかし、非難されるべきものは、いっさいの神話的暴力、法措定の−−支配の、といってもよい−−暴力である。これに仕える法維持の暴力、管理される暴力も、同じく非難されなければならない。これらにたいして神的な暴力は、神聖な執行の印章であって、けっして手段ではないが、摂理の暴力といえるかもしれない。(ベンヤミン『暴力批判論』p64-pp65)

「神話的な法形態にしばられたこの循環を打破する」暴力は、許されたものではなく、あくまでもやむをえぬものでなければならない。神的暴力の純粋で直接的な示現が、ある意味で現実には不可能なもののように語られるのは、それがあくまで批判原理であるからなのだ。神的とか摂理というのは、そのやむをえなさの印章なのである。
ただ、「暴力の廃絶の理念」である批判原理が、たとえ摂理にたとえられるようなものであるにせよ、なぜ暴力でなければならないのか?それはどこかずれた議論ではないのか、強い純粋な暴力によって弱い不純な暴力に打ち勝つ、という構図は、純粋な暴力が直接この世界に顕現する場合には意味のあることだろうが、そうでないのならば(私はそれはありえないと思う)、むしろ不純な暴力の弱さにつけこんで、その力をより弱める方向で考える方が、「暴力の廃絶の理念」にかなうのではないか。

これで終わりではない

何度も投げ出しそうになりながら、id:kurahitoさん、id:mojimojiさん、id:mushimoriさんの励ましによって、ついにベンヤミンの本文を読み終えることが出来ました。コメントを寄せてくださった三人の方に感謝します。
ただ、読み終えてなお、多くの疑問が残っています。その疑問のうちにはもちろん、はたしてドイツ語も出来ないド素人の私がベンヤミンの意図を上手くつかまえているのかという疑問も含まれますが、大過ないとしてさえも、この『暴力批判論』の議論をどう評価したらよいのか迷うところです。
途中から、思うところあって諸家の解釈をあえて参照せずに、自分の無知と無思慮のみを頼りに強引に読みすすめてきましたが、しばらく時をおいてから、いつかまた優れた先達の研究を手引きに『暴力批判論』をどう受けとめるか(あるいはどう批判するか)、私なりの評価を考えようと思います。
ただ、今しばらくは、仕事に専念する時間を確保するために、疑問を放置して、とりあえず読み終わったことにします。