『論語』管仲之器

id:knoriさんのコメントに触発されて、ちょっと調べてみました。

「衣食足りて礼節を知る」

「衣食足りて礼節を知る」というのは、辞典で調べてみたら、春秋戦国時代の政治家・管仲の言葉で『管子』という書物に出てくるのだそうですが、いま私の手元にその本はなく、あいにく昨日は東京も雪で、団地の歩道の雪かきをしたお陰で腰は痛いは熱は出るはで、ただでさえデブで出不精な私には近所の図書館に行くのもおっくう。そこで管仲について知ろうと手元にあった『史記』を開いてみたら、幸い『管子』からの引用があったので、孫引きで恐縮ですが、引いておきます。

管仲が斉の宰相となって国政を担任すると、区々の斉ながら、海に面した地の利で、海産物を交易して財宝を蓄積し、国を富まし兵を強くし、民衆と好悪を同じくした。だからその著書(管子)でも、「倉廩がみちて民は礼節を知り、衣食が足って人は栄辱を知る。上に立つ者が節度を守れば六親の結合は固く、四維(四大綱領、礼、義、廉、恥)がゆるめば国は滅亡する」と言ってある。命令を下せば、ちょうど水が低いほうへ流れるように、民心に順応させた。したがってその論ずるところは卑近でおこないやすく、大衆の望むものは、望に従って与え、厭うものは、それに従って除いた。政治の仕方は、禍いをもよく利用して福とし、失敗を転じて成功に導き、およそ事の軽重をはかるのを要務とし、均衡を得ることに慎重であった。(『史記〈5〉―列伝〈1〉 (ちくま学芸文庫)』p16-17)

この「倉廩がみちて民は礼節を知り、衣食が足って人は栄辱を知る。」という言葉がちぢまって「衣食足りて礼節を知る」になったということだそうです。こうしてみると、経済が安定してこそ社会秩序も保たれる、という意味あいのことをマクロの視点から言っているように感じられます。
管仲という人は、苦労人でバランス感覚のある現実主義的な政治家だったようです。斉の桓公を補佐して名宰相とうたわれたそうです。司馬遷も「世にいわゆる賢臣である」と高く評価しています。けれども、この管仲について孔子の点は辛かった。

孔子管仲批判

論語 (岩波文庫 青202-1)』の管仲批判は、「管仲の器は小なるかな。」と言った孔子に「或るひと」がその真意を尋ねるというかたちで語られますが、これはいささかコミカルな場面であるように思うのです。
「子曰、管仲之器小哉」、これは金谷治氏の現代語訳では「先生がいわれた、「管仲の人物は小さいね。」」(前掲書、p66)となっていて、もちろんそれは正しいのでしょうが、ここは原文通り、「管仲の器は小さいね」、としておきたいところです。そうでないと、そのあとのやりとりがピンときません。
孔子が「管仲の器は小さいね」と言ったのを聞いた或るひとが尋ねます。

管仲は倹約だったのですか。」というと、「管氏には三つの邸宅があり、家臣の事務もかけもちなしで〔それぞれ専任をおいて〕させていた。どうして倹約といえようか。」「それでは管仲は礼をわきまえていたのですか。」「国君は目かくしの塀を立てて門をふさぐが、管氏も〔陪臣の身でありながら〕やはり塀を立てて門の目かくしにした。国君が二人で修好するときには、盃をもどす台を設けるが、管氏にもやはり盃をもどす台があった。管氏でも礼をわきまえているというなら、礼をわきまえないものなどだれもなかろう。」(前掲書、p66)

この章句を、最初に現代語訳で読んだときには、管仲が小人物である、という孔子の発言から、どうして、倹約家だったのか、とか、礼をわきまえていたのか、などという質問が出てくるのか、どうにも腑に落ちませんでしたが、最初の言葉が「管仲の器は小なるかな。」だとわかると、質問する或るひとと孔子の食い違いがなんとなくわかってきました。
或るひとは「管仲の器は小なるかな。」という孔子の言葉に出てくる「器」という語を、人間の度量とか風格という意味ではなく、文字通りの意味でとったのでしょう。「器」は食器のほかにも道具類などを指しますから、或るひとが具体的に何を思い描いていたかはわかりませんが、ともかく、孔子の言葉を、管仲の所有物は小さい(あるいは少ない)、という意味で受けとった。そこで、それなら倹約家だったのでしょうね、という質問が出てきたわけです。話が食い違っているのですが、孔子はかまわずに、三つも家を持っていたのに倹約家であろうはずがない、と答えた。
ところが、器=道具と思い込んでいる或るひとは、管仲が小さい家や道具をたくさん持っているように想像したのではないでしょうか。そこで、倹約はしなかったけれども持ち物は小さかったのだから身を慎んでいたのだろうと考えて、「然らば則ち管仲は礼を知るか」と尋ねる。孔子は、相手の物分かりの悪いのにいささか呆れながら、そんなことはないと例を挙げて反論する、という場面なのではないかと思います。
これは私の勝手な思い入れですが、この章句は弟子たちにとって、的外れな質問にも生真面目に答える孔先生のほほえましいエピソードとして記録されたのではないかと思うのです。
それはともかくとして、孔子の立場からすると、管仲は強欲で不遜ということになるわけですが、司馬遷孔子と同じ例を挙げて次のように書いています。

管仲の私財は斉の公室にも匹敵し、山帰(朝廷より退出して帰る家が三ヵ所ある)・反ロ縺i諸侯が会見の際、献酬の礼が終わって杯を返す土製の台)があったが、斉人は、これを分にすぎた贅沢とは思わなかった。管仲の死後も、斉は管仲の政策を遵奉し、常に諸侯の間で強かった。(『史記〈5〉―列伝〈1〉 (ちくま学芸文庫)』p17)

管仲は、政治家としてはたいへん成功した人のようです。もっとも司馬遷孔子管仲批判は気にしていて、「これは、周の王道が衰微して統率力がないとき、斉の桓公は賢をもって聞こえるのに、管仲は王者の道をおこなわせず、ただ覇者の名を成さしめたからであろうか」(前掲、p20)と言っています。
管仲、そして孔子の時代には、衰えたりとはいえ、名目上の王として周王室は存続していましたが、政治の実効性を重んじた管仲は、内紛でガタガタになった周にてこ入れするよりも、五覇と呼ばれた当時の五大強国による国際会議で多国間秩序の均衡をはかる道を選びます。これが周を至徳とする孔子としては気に食わない。周王を中心とした序列から言えば、一地方領主の家臣にすぎないのに主君を上回る権勢を誇り、主君(斉の桓公)をして周王室再興に向かわせなかった管仲は、二重の意味で礼を知らぬ者、ということになったのでしょう。屁理屈をこねれば、孔子は権威の正統性にこだわったと言えるかと思います。
しかし、『論語』の別の箇所(憲問)では、管仲が国際会議に際して武力を用いなかったこと、その結果、国際秩序が安定し文化が保たれたことを孔子は「仁」と称賛しています(p280-282)。このあたりが『論語』という本のわかりづらさです。