『論語』どうして孔子は管仲に手厳しいのか

管仲を非難できるとしたら、若いころからさんざん迷惑をかけられてきた鮑叔と、殺されかけた桓公だろうが、その鮑叔に推薦され、命を狙った桓公に許されて大臣に出世したくらいだから、この人については悪口を言うべき人がいない。
せめて大臣になってから悪政・失政があればよかったのだが、『管子』は身内ボメだからともかく『史記』でも絶賛であるから文句の出ようがない。あえて言えば、初めに仕えた小白の後を追わなかったことくらいだが、管仲に点の辛い孔子がそんなことはたいしたことではないと言いきってしまったものだから、もう怖いものなしである。

八つ当たり

その管仲のことを、孔子は「管氏にして礼を知らば、たれか礼を知らざらんや。」とこきおろした。『史記』で見る限り、管仲はつねに主君、桓公を立てて行動しており、無礼と言うには当たらないように思うのだが、孔子は、管仲の蓄財や豪勢な暮らしぶりを指して臣下の分際で僭越だというのである。君主のみに許された格式を犯している、と非難するのである。
しかし、管仲の主君、桓公はそれを咎めていないし、斉の人々も非難しなかった(「斉人は、これを分にすぎた贅沢とは思わなかった」『史記列伝』)。管仲がそうした格式にふさわしいだけの業績を上げていることを知っていたからである。その上、周王室も管仲に上卿の待遇を与えようとした。それにふさわしい位置を当時の国際社会で管仲が占めているのを知っていたからである(けれども管仲は辞退した)。孔子はいったい何か不満で管仲に文句を垂れているのか?
あくまで孔子は身分や格式にこだわったとすれば、孔子の説く礼とは、実にみみっちい形式主義ということになる。いや、それどころか、孔子の説く古来の礼というものには証拠がないことを孔子自身が認めているし、また、孔子は周の礼を至徳としたが、当の周が管仲を高く評価したのである。つまり、いかに孔子が無礼者となじったところで、その根拠はない。せいぜいのところ、それは世の中が孔子が思うようなものでないことにむかっ腹を立てているということになりはしないか。
結局、孔子管仲批判は八つ当たりにしか思えない。では、どうして孔子管仲に八つ当たりをしたのか。

「武士は食わねど高楊枝」対「衣食足りて礼節を知る」

孔子管仲とそりが合わない、ということが考えられる。もちろん、管仲孔子にとっても昔の人だから、顔が気にくわないとか、声を聞くとイヤな感じがするということではないだろうが、考え方がどうしてもあわない、ということはあるだろう。
よくビジネス雑誌などでは、信長・秀吉・家康と並べて経営者の三タイプなどと喋々し、それにつられて、自分は信長型だとかほざく阿呆もいるが、歴史上の偉人と市井の凡人を何の媒介もなく比較しても仕方がない、ということはさておくとしても、私は信長とはそりが合わない。孔子管仲評というのもこのたぐいのものという気もする。
他の方のブログで哲学者占いというものをやっているのを見て遊んでみたが、私はウィトゲンシュタイン型なのだそうだ。何度やっても同じ結果が出るので信じるしかない。ところが、私はウィトゲンシュタインを嫌いではないが、彼が得意だった記号論理学はまったく苦手で、日常言語が大事だと言いだした後期の著作を読んでも、そんなこと今さら思ったのか、よほど世間知らずだったんだな、と思う程度の理解でしかない。その上、デリダラカンゲーデルと相性がよく、ソクラテスエピクロスデカルトと相性が悪いことになっている。ウィトゲンシュタイン本人から見れば、ソクラテスエピクロスデカルトは必ずしも相性が悪い方ではないのではないか。私なら、ウィトゲンシュタインと相性がいいのは、カント・キルケゴールフッサール、を挙げたいところだがどうだろうか。私自身はといえば、デリダは学生のころ無理して読んだが、ラカンゲーデルは読まずじまい(読んでもわからなかったろう)、デカルトは大好きである。ただ、実生活でもつきあえるとは思っていない。実際にお近づきになれるとしたら、ソクラテス(恐妻家同士)、エンゲルス(金を貸してくれそう)、ヤスパース(紳士)、といったところか。
与太話はともかくとして、『管子』には孔子も説く仁義礼などの徳も説かれており、とくに儒家イデオロギー的に対立するところもないように思えるが、強いて違いを挙げるとすれば「利」というものに対する態度だろう。
管仲は「倉廩がみちて民は礼節を知り、衣食が足って人は栄辱を知る」がモットーのリアリストで、本人も若い頃は貧乏をしたものだから、生産力向上、貧困者の救済に意を用いた人である。
一方で孔子も若い頃は貧乏で、いろいろな職を転々として器用貧乏は自慢にもならぬと自嘲しているが、『論語』には武士は食わねど高楊枝的な章句が散見される。Web漢文大系から目に付いたものを拾ってみる。

子曰く、君子は食に飽(あ)くを求むるなく、居(きょ)に安(やす)きを求むるなし。事に敏(びん)にして言に慎しみ、有道(ゆうどう)に就いて正す。学を好むというべきのみ。(岩波文庫でp30)

子曰く、利を放(ほし)いままにして行えば、怨みを多くす。(岩波文庫でp76)

子曰く、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩(さと)る。(岩波文庫でp78)

子曰く、富(とみ)にして求むべくんば、執鞭(しつべん)の士といえども、われまたこれをなさん。もし求むべからずんば、わが好むところに従(したが)わん。 (岩波文庫でp133)

まだまだ出てきそうだがこの辺でやめておく(Web漢文大系、万歳!)。
ともあれ、孔子は利や富にあまり高い価値をおかなかった。自分はそれよりも高い価値を目指しているのだという自負があったのだろう。こういう孔子にとって、腹が減っては道義だの礼節だのと言っておれんだろう、という管仲は、なんとなく嫌な奴だったということはありそうだ。
しかし、自らを律するという個人道徳としては孔子の言うことはもっとも知れないが、すべての人に孔子のように生きろと強制するわけにもいかないのだから、政治家としては、まず人々の生活を安定させることを考えた管仲の方が上のように思う。