『論語』やはり管仲は無礼者である

過日、id:kurahitoさんから、示唆に富むコメントをいただいたが、博学にして寸言に複雑な意味を含ませる同氏の意図を汲むことは、器の小さい私の手に余ることなので、無知と浅慮を省みぬまま妄言を連ねる。
論語 (岩波文庫 青202-1)』顔淵編を読んでいて、次の章句が気になった。

斉(せい)の景公(けいこう)、政(まつりごと)を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰く、君を君とし、臣を臣とし、父を父とし、子を子とす。公曰く、善(よ)いかな。まことにもし、君、君とせられず、臣、臣とせられず、父、父とせられず、子、子とせられずんば、粟(ぞく)ありといえども、われ得てこれを食(くら)わんや。

さすが景公は斉の君主である。孔子が君臣秩序の名実を正そうとしたのに対し、まず食い物の心配をするとは!「衣食足りて…」の国の殿様はこうでなくては。
それはともかく、管仲の言葉として伝わるものに、「君、君たらざれば、臣、臣たらず」というのがあった。

君、君たらざれば、臣、臣たらず、父、父たらざれば、子、子たらず、上その位を失えば、下その節をこゆ。(『管子』形勢(山高)編)

これは『論語』への当てこすりとして後世になって付け加えられたようにも見えるが、案外、管仲の言葉として有名だったので、孔子がそれを逆手に取ったのかも知れない。
それはともかく、管仲の「君、君たらざれば、臣、臣たらず」は、孔子が君臣秩序を前提にして、君は君たれ、臣は臣たれ、と説くのとは少し違う。これは臣下の側から言われる言葉である。あんた、殿様らしく立派にふるまってくれないと、臣下の分際なんて言ってられないよ、と主君を脅す響きさえある。実際、管仲は、いくども主君桓公の軽率な行動に、それダメ、とピシャリとやっている。
管仲の「君、君たらざれば、臣、臣たらず」は、君主と臣下のそれぞれの役割は互いの関係によって成り立つという条件付きの君臣関係のとらえ方であって、孔子のように「君を君とし、臣を臣とし、父を父とし、子を子とす」が礼にかなった政治だというなら、管仲は確かに礼を知らない。

孔子の「父」

いくつか読んでいる参考書のなかに、先に引いた『論語』顔淵編の章句について、面白い解釈があった。

これは、先ほども見た「春秋の義」そのものであって、司馬遷が歴史叙述を通じて実現しようとした「礼」という秩序の根幹をなしています。つまり、それぞれの出来事や事物が正しく名づけられることで、ふさわしい固有の意味を獲得し、名実あるいは名分が一致することが「正名」なのです。この言語行為があってはじめて「礼」は可能となります。したがって、司馬遷が目指す歴史叙述も、広い意味では「正名」に属しているといってよいでしょう。
ところで、『論語』でなされたこの「正名」の定義はなんとも象徴的です。名を与えることは何よりもまず、父子関係とそれに常に類比される権力秩序を基礎づけようとしてですが、その命名自体が父子関係を前提としているのです。「正名」あるいは歴史叙述には、常に父の声が響いています。(中島隆博「非西欧(中国)の歴史意識」『岩波 新・哲学講義〈8〉歴史と終末論歴史と終末論』p146-147)

「父」といえば、桓公管仲を「仲父」と呼んで敬ったそうである。仲父は叔父という意味もあるらしいが、仲は管仲の名でもある。耳の痛いこともいうけれど頼りになる仲親父、というニュアンスもあろうか。血縁のない管仲を父と呼ぶ桓公は、父にあらざるものを父とした、ということにもなる。孔子から見れば礼の退廃であり、誤った政治ということになろう。けれども現実の歴史は孔子を嘲笑うかのように、斉は栄え、魯は衰えた。孔子の生きた時代にすでにその結果は見えていた。
もう一つ気になるのが、孔子自身と父との関係である。『史記孔子世家によれば、孔子の生物学上の父親は、母親の配偶者ではなかったらしい。その父も孔子が産まれてすぐに亡くなり、孔子は母親の手で育てられた。つまり、父方の家系から見れば、孔子は「庶子」なのである。そのためか、母親は孔子に父の墓所を教えなかった。その孔子が男系血統による秩序を重んじ、正統性にこだわる、ちょっと屈折した話だ。

孔子と母

いま述べたことに関連して、孔子は女性に点が辛いのも気にかかる。「女子と小人は養いがたし」と言ったのは有名だが、泰伯編ではこんなことも言っている。

舜(しゅん)に臣五人あり、しかして天下治まる。武王曰く、予(われ)に乱臣(らんしん)十人あり、と。孔子曰く、才(さい)難(かた)しとは、それ然らずや。唐虞(とうぐ)の際、ここにおいて盛んとなす。婦人あり、九人のみ。天下を三分してその二を有(たも)ち、もって殷(いん)に服事(ふくじ)す。周(しゅう)の徳は、至徳と謂うべきのみ。(岩波文庫だとp163)

「予に乱臣十人あり」と周の武王が誇った。殷周革命の功臣たち、太公望や周公旦らのことだが、その中に武王や周公旦の母親、先代文王の后である太?も含まれていた。それが孔子の気に入らない。「女が混じっているからそれを差っ引いて、九人の人材で天下を取ったというわけだ」(婦人あり、九人のみ)と、武王の言葉を曲げてしまう。
太?の事績はつまびらかではないが、武王・周公旦ら兄弟十人の母親というから、たいした肝っ玉母さんであったことだろう。武王自ら「乱臣」(ここでは功臣の意だという)として挙げているのも、単なる親孝行の気持ちからではなく、実際に周の政治に功績があった(白川静中国古代の民俗 (講談社学術文庫)』には古代の戦闘は呪術合戦の側面もあり巫女が戦陣の先頭に立ったという)と考えた方が素直というもの、その方が「述べて作らず」の精神に乗っ取っているはずである。それなのに、女は除いて、と勘定するあたりに孔子の曲がった根性がかいま見える。女手一つでお前を育て上げたおっ母さんが草葉の陰で泣いておるぞ、と説教の一つもしてやりたい気分だ。

孔子は誰の子か

「述べて作らず」と言えば、14日の記事にkurahitoさんが寄せてくださったコメントhttp://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/comment?date=20060214#cで思いついたのだが、孔子は「周の徳は、至徳と謂うべき」と言い、その国祖・周公旦を夢にまで見ていたというわりには、三年もたらたら喪に服していた魯公を嘆いた周公旦の言葉は無視している。孔子は、武王の言葉といい、周公の言葉といい、自分の考えにあうように取捨選択しているのである。
こうなると、いったい孔子の夢みた周公旦とは誰のことなのか、と疑問に思う。
さて、ここからはこれまで以上に根拠のない邪推なのだが、孔子の夢にあらわれた周公旦とは、歴史上の人物のことではなく、孔子自身が夢に描いた理想の王者、いや、父親のことではなかったのか。「父を父とし、子を子とす」といった孔子も、実は父ならざるものを父とした子、自らの父を産みだした、子ならざる子ではなかったか。
失われた周の礼を復古して社会秩序を正す、という孔子の構想は、男系血統主義社会で強いられた彼の貧しい青春時代の葛藤が、いかばかりかは反映されているのではないか、と私には思われる。
読み返すと、ゲスの勘ぐりに類したことばかりだが、とりあえず『論語』を読むのはこのへんで一区切りとする。