『論語』しつこく、昨日の続き

くどいようだが孔子管仲評にあいかわらずこだわっている。
ところで、『論語』を読んでいて困るのは、文脈がないということである。次に引くように、子路との問答に続いて、同様の質問を子貢がする場面が出てくるのだが、これが実際にあったことなのかどうかわからない。もし、『論語』掲載順のとおりのことが実際にあったことなら、子路と子貢が同席している場で管仲のことが話題になり、子路の質問に対する孔子の答えに満足しなかった子貢が「でも先生」と畳みかけてさらに突っ込んだ見解を引き出した、ということになる。
けれども、『論語』は孔子没後に門人たちが編んだ師の名言集であることはわかっているので、『論語』の順番通りに場面が展開した保証はない。つまりこの二つの問答は『論語』においては並べられているが、実際には別々の場面でなされたことを、趣旨が似かよっているということでここにまとめられたという可能性もある。『論語』編纂会議で誰かが、そういえば子路が先生に管仲について尋ねていたな、と思い出すと、別の誰かが、それなら子貢も似たような質問していたぞ、と付け加えた、というように。
また、これは子路か子貢かあるいは別の誰かが、孔子管仲についての質問をした場面の記憶が、二系統のルートで伝わり、伝言ゲームの要領でそれぞれ細部は変形していき、二つの章句になったとも考えられる。
直弟子による日付入りの講義録を記した竹簡でも出土すれば別だが、どうも容易に決着が付きそうにはないので、歴史・社会的な文脈は想定せず、孔子の言葉を額面通り受け取ることにして読んでいる。
さて、前にも引いたように、孔子は「管氏にして礼を知らば、たれか礼を知らざらんや。」と管仲が権勢をふるったことを酷評している。http://kanbun.info/keibu/rongo03.html

管仲は倹約だったのですか。」というと、「管氏には三つの邸宅があり、家臣の事務もかけもちなしで〔それぞれ専任をおいて〕させていた。どうして倹約といえようか。」「それでは管仲は礼をわきまえていたのですか。」「国君は目かくしの塀を立てて門をふさぐが、管氏も〔陪臣の身でありながら〕やはり塀を立てて門の目かくしにした。国君が二人で修好するときには、盃をもどす台を設けるが、管氏にもやはり盃をもどす台があった。管氏でも礼をわきまえているというなら、礼をわきまえないものなどだれもなかろう。」(『論語 (岩波文庫 青202-1)』、p66)

司馬遷が、「これは、周の王道が衰微して統率力がないとき、斉の桓公は賢をもって聞こえるのに、管仲は王者の道をおこなわせず、ただ覇者の名を成さしめたからであろうか」(『史記〈5〉―列伝〈1〉 (ちくま学芸文庫)』、p20)と言うのも考えすぎというような気がしてきた。
この章句で孔子がいっている礼とは、やはり君臣の秩序、分をわきまえよ、というようなことだろう。管仲は主君を上回る威勢を示した。それが孔子の目から見れば不遜のきわみということになるのだろう。
孔子から見れば、管仲は君臣間の礼をわきまえず不遜である。しかし、その管仲は、やはり孔子から見て、仁であるとして讃えられる。

子路がいった、「桓公が公子の糾を殺したとき、召忽は殉死しましたが管仲は死にませんで〔仇の桓公に仕えま〕した。」「仁ではないでしょうね。」というと、先生はいわれた、「桓公が諸侯を会合したとき武力を用いなかったのは、管仲のおかげだ。〔殉死をしなかったのは小さいことで〕だれがその仁に及ぼうか。だれがその仁に及ぼうか。」(p280-281)

この章句に続いて、同じような質問を子貢もしたことが記されている。

子貢がいった。「管仲は仁の人ではないでしょうね。桓公が公子の糾を殺したときに、殉死もできないで、さらに〔仇の〕桓公を補佐しました。」先生はいわれた、「管仲桓公を補佐して諸侯の旗がしらにならせ、天下をととのえ正した。人民は今日までもそのおかげをこうむっている。管仲がいなければ、わたしたちは散ばら髪で襟を左まえにし〔た野蛮な風俗になっ〕ていたろう。とるにたりない男女が義理だてをして首つり自殺でみぞに捨てられ、だれにも気づかれないで終わるというのと、〔管仲ほどの人が〕どうして同じにできようか。」(p282)

管仲は、桓公をして諸侯を招いた会議を開かせて国際秩序を確立し、その結果、中華の文明的社会が維持された、そのことを孔子は「仁」と言っている。
もちろん「仁」は、例えば岩波文庫版の訳注者金谷氏が、自著『孔子 (講談社学術文庫)』でも説いているように、思いやりとか真心といった個人道徳・心情倫理の側面も大いにあろう。けれども、管仲という人物への評価を念頭においてみると、為政者に要請される徳目、という側面もあるように思う。
「能く博く民に施して能く衆を済」った点において、管仲の業績は仁だと言わなければならない。しかし、一方で君主を上回る富を誇ったことで礼を知る人とはされない、孔子管仲評は以上の如くであるが、これをしつこく確認しているのは、どうにも引っかかることがあるからだ。
引っかかったのは二点、第一に管仲が礼を知らないというのは酷評に過ぎるのではないかということ、第二に礼と仁との関係、である。