『史記』管鮑の交わり

論語』憲問編で、子路と子貢が、管仲が仁であるかどうかについて孔子に問いただしたのは、管仲が仕えていた公子糾に殉死せずに仇の桓公に仕えたことをもってだった。この一件は、「管鮑の交わり」として知られる故事にかかわっている。
管鮑の交わりというのは、篤い友情のことをいうくらいのことは知っていたが、背景はうろおぼえだったので、あらためて『史記』に当たってみると、お家騒動にまつわるたいへんドラマチックな物語である。「HERO」asin:B00009RG46したら当たるのではないだろうか(マギー・チャンが好き)。以下、『史記』から抜き書きしながら概略を追ってみる。
春秋戦国時代の大国である斉の先代君主が亡くなったとき、後継候補は、甥の無知と、それぞれ母親の違う息子たち、諸児、糾、小白の三兄弟の四人だった。先代の子にはほかに女の子がいたが、すでに隣国魯の君主に嫁いでいた。
一応、三兄弟の長兄である諸児が太子と決まっていたが、先代は実子の三人よりも甥の無知を可愛がっており、無知には太子と同等の待遇を与えていた。おまけに、太子の諸児は妹が魯公に嫁ぐ前に近親相姦の関係にあったというから、品行方正とはとてもいえず、家臣たちも諸児の相続をすんなり認めるムードでもなかったろう。なんだか『リア王』、『カラマーゾフの兄弟』、『犬神家の一族』を連想してしまう。三兄弟(姉妹)+αの家督争いというものには、神話的な起原でもあるのかもしれない。
私の妄想的連想はさておいて、太子諸児は父公の後を継いだ。斉の襄公である。襄公は「しばしば死刑を不当に行ない、女色におぼれ、たびたび大臣を欺いた」(p55)というから暗愚の君主だったのだろう。位を継いだ襄公は、「無知に対する俸禄・衣服などの支給を廃止したので、無知は怨んだ」(『史記世家 上 (岩波文庫 青 214-6)』p53)。こういう露骨な報復人事は当人の怨みだけでなく、世間の顰蹙も買うものである。
愚行のうちの最たるものは魯公暗殺だろう(この魯公は桓公というが、斉の桓公とまぎらわしいので)。魯公夫人は襄公の妹、襄公の異母弟糾の母は魯の公女というように、魯と斉の公室は縁戚関係にあった。『史記』斉太公世家には「斉の襄公は以前ひそかに魯公の夫人と通じていた」とあるが、魯周公世家には魯に出かけようとする魯公を重臣が「止めるように諫めた」とあるので、おそらく二人の関係は公然の秘密であったろう。だが、「公は聞き入れず、ついに斉に行った」。魯公夫妻が斉に到着すると、襄公はさっそく妹である魯公夫人とよりを戻した。あれあれ、強烈な三角関係だこと。これを知った魯公が夫人を叱責すると、夫人は兄にそれを告げた。密通がばれた襄公はあっさり義弟の魯公を殺してしまう。

斉の襄公は魯公を招いて酒宴を開き、彼を酔わせて、大力の者彭生に命じ、魯公を車の上へ抱え上げさせ、そのおりに魯の桓公の体を締めつけて殺させた。車から降りる時には桓公は死んでいた。(『史記世家 上 (岩波文庫 青 214-6)』p53)

あきれた話である。魯公もおそらくは女房とその兄貴の関係を知っていただろう。けれども、自分と結婚して十五年、跡継ぎ息子ももうけており、いまさら焼けぼっくいに火がつくこともあるまい、とたかをくくっていたとしても責められない。お人好しといえばそれまでだけれど、ちょっと可哀相。
むしろ、襄公の短慮、放埒が目にあまる。禁断の恋は燃えるっていうけれどさ、殺すことはないでしょう。それもなんだかあとさき考えずに衝動的にやっちゃった、という感じがする。
当然、魯から抗議があった。襄公は罪を実行犯の彭生一人になすりつけて、彼を殺し、魯に対する詫びとした。

魯では太子の同を位につけた。これが荘公である。
荘公の母である桓公の夫人はそのまま斉に留まり、けっして魯に帰ろうとはしなかった。(『史記世家』p112)

「けっして魯に帰ろうとはしなかった」、…ハァ、っていう感じ。
襄公とその妹、妹の夫である魯公の三角関係と魯公暗殺のスキャンダルは宮廷の秘事のはずだったろうが、多くの人々がことの真相に勘づいていたのだろう。八年もたってから罪を着て死んだ彭生の幽霊が出た。
行楽に出かけた襄公は、沛丘というところで猟をした。

猪を見つけたところ、従者が「彭生だ」と叫んだ。襄公が腹を立てて、矢を射ると、猪は人間のように立ち上がって、啼いた。襄公は恐れ、車から落ちて、足に怪我をし、靴をなくした。(『史記世家』p54)

この幽霊騒ぎは、あるいは仕組まれたものだったかもしれない。というのも、襄公が怪我をしたのを機に、冷遇されていた無知がアンチ襄公派の家臣たちと謀って宮殿を襲撃、襄公を血祭りにあげ、自ら斉公の位についたからである。タイミングがよすぎるではないか。真っ昼間に猪を幽霊と間違える人はめったにいないだろうが、タイミングがいいと暗示にかかる。もてる呪文というのもこのたぐいのものかもしれない。
このクーデター以前に、すでに斉国内には不穏な空気が流れていたのだろう。襄公の二人の異母弟、糾と小白は、予想される難を避けてそれぞれの母方の里へ亡命していた。魯に亡命した糾には管仲と召忽、莒に亡命した小白には鮑叔が守り役として随行していた。
ここでようやく「管鮑の交わり」の管と鮑、管仲と鮑叔が登場する。
管仲と鮑叔は若い頃より交友があり、鮑叔はつねに管仲を支え続けたようだ。
若き日を振り返る管仲の言葉が『史記』にある。

管仲は言った、「かつて私が困窮していたころ、鮑叔とともに商売をしたが、利益を分けるとき、私は分け前を多く取ったのに、鮑叔は私を貪欲とは思わなかった。私の貧乏を知っていたからである。かつて私は鮑叔のために事業を企てたが、失敗していよいよ困窮したのに、鮑叔は私を愚か者とは思わなかった。時に利・不利のあることを知っていたからである。かつて私は三たび仕えて、三たびとも君から逐われたが、鮑叔は私を無能とは思わなかった。私が時の利にあわなかったのを知っていたからである。かつて私は三たび戦い、三たびとも敗れて逃げ出したのに、鮑叔は私を卑怯とは思わなかった。私に老母があるのを知っていたからである。公子糾の敗れたとき、同僚の召忽は戦死し、私は幽囚されて辱めを受けたが、鮑叔は私を恥知らずとは思わなかった。私が小節を恥じず、功名を天下に顕せないのを恥としたのを知っていたからである。私を生んでくれたのは父母だが、私を知ってくれるのは鮑子である」と。(『史記〈5〉―列伝〈1〉 (ちくま学芸文庫)』p15-p16)

話半分にしても一生頭が上がりそうにない友だちである。「かつて私は鮑叔のために事業を企てたが、失敗していよいよ困窮した」とか「かつて私は三たび仕えて、三たびとも君から逐われた」というくだりには我が身を振り返ってドキリとする。管仲ほどの大人物と卑しい自分を比べるのは不遜だが、私を見捨てなかった妻の友情は鮑叔に較べても劣るところはない(と、のろけておく)。
クーデターで斉の君主の座についた無知だが、彼も襄公に劣らず人に怨みを買っていて、その年のうちに殺されてしまい事態は急変する。斉の重臣たちは次の君主に誰がふさわしいかを議論した。候補者は糾と小白である。こうして大の親友だった管仲と鮑叔は、それぞれ次期君主候補をかついでのライバル同士になってしまう。
斉の重臣、高傒らは、議論がまだ決まらぬうちに小白を呼び寄せた。これはおそらく魯に身を寄せていた糾が君主の位につくと、魯の影響力が強くなるのを避けようとしてのことだろう。しかし、襄公に主君を殺された魯としては、ここで隣国斉に親魯派の君主を立ててる絶好の機会である。魯もまた隣国に対する自国の影響力を増すべく、糾を兵に守らせて斉に向かわせる。先に斉に到着した方が後継争いで優位に立てることは言うまでもない。ここからは大活劇である。管仲にはジェット・リーかなあ。

魯は無知が死んだと聞くと、やはり兵を出して公子の糾を斉へ送らせた。そして管仲に命じて、別に一隊を率いて行かせ、彼らは莒から斉への道を遮断し、矢を射かけて小白の鉤(帯の留め金)に当てた。小白は死んだように見せかけた。管仲は急使を出し、早駆けで魯に報告させた。糾を送る魯の者たちの足はますます遅くなり、六日かかって斉に到着したが、その時はすでに小白が斉に戻り、高傒が彼を位につけた後であった。これが桓公である。(『史記世家 上 (岩波文庫 青 214-6)』p56)

即位した桓公は、魯に出兵し、ライバルの糾の処刑と管仲・召忽の身柄引き渡しを求める。「わが手で心ゆくまで切りきざみ」なますにしてくれようと申し送ったらしいから、桓公は当初、本気で管仲をなぶり殺しにするつもりだった。ところが、守り役の鮑叔が諫めて言った。

「わたくしは運よくわが君(桓公を指す)にお仕えすることができ、わが君はけっきょく位におつきになりました。わが君のご尊厳をわたくしはこれ以上高くしてさしあげられません。わが君が斉国だけを治め給うのでありますれば、それは高傒とわたくしとで足ります。わが君がいずれは覇王(覇者)たらんとのお志ならば、管夷吾(夷吾は管仲の字)でなければできませぬ。管夷吾の居ります国はその国が重みを増します。彼を失ってはなりません。」(『史記世家』p56)

もつべきものはよき友である。この鮑叔の取りなしのお陰で管仲はなますになるのを免れたばかりか、斉の大臣に取り立てられた。

管仲を推挙したのち、鮑叔は、みずから管仲の下風に立って敬意を払った。鮑叔の子孫は代々斉の俸禄を受け、封邑を領有すること十余代、常に名大夫として世に聞こえた。されば天下の人は、管仲の賢をほめるより、むしろ鮑叔の人を知る明をほめたたえた。(『史記〈5〉―列伝〈1〉 (ちくま学芸文庫)』p16)

これが「管鮑の交わり」として知られる友情物語のハッピーエンドだが、しかし、管仲がそれまで仕えてきた公子糾は刑死し(戦死とも)、同僚の召忽は糾の後を追って殉死した。これが『論語』憲問編で子路と子貢が孔子に「管仲は仁者に非ざるか」と問いただした一件である。
なお『管子』には、このとき管仲は召忽から「俺は死んで忠臣として主君の名を高めるから、君は生きて賢臣として主君の名を高めよ」というように諭されたことになっているが、これはいささかきれいごとに過ぎるように思う。やはり『史記』にある「小節を恥じず、功名を天下に顕せないのを恥とした」という言葉が示すような強い自負が、管仲をして生き延びる決断をさせたと見る方がふさわしいように私には思われる。
主君と同僚を死なせた桓公は、管仲自らも殺し殺されようとした相手である。その桓公に仕えるとは、なんだ、ずいぶん不人情じゃないか、追い腹を切れとはいわないがせめて、二君に見えずとか見得を切って仕官をことわるくらいしたらどうか、それとも、管仲にとって糾も召忽も出世の踏み台しか過ぎなかったのか、と私も思わないではない。だから子路と子貢も、管仲は仁ではないですよね、と孔子に尋ねたのだろう。
だが、孔子管仲のその後の業績を挙げて仁だとし、殉死するかしないかなどとるにたりないことだと言った。「仁」とは、辞書などでは「思いやり」などとなっているが、管仲が仁だとすると、素朴な心情倫理、道徳感情ではないことになる。