『史記』『管子』管仲之力也

しつこく『論語 (岩波文庫 青202-1)』のこの章句にこだわる。

子路がいった、「桓公が公子の糾を殺したとき、召忽は殉死しましたが管仲は死にませんで〔仇の桓公に仕えま〕した。」「仁ではないでしょうね。」というと、先生はいわれた、「桓公が諸侯を会合したとき武力を用いなかったのは、管仲のおかげだ。〔殉死をしなかったのは小さいことで〕だれがその仁に及ぼうか。だれがその仁に及ぼうか。」(p280-281)

金谷氏が「おかげ」と訳しているのは、読み下し文では「力」である。
桓公、諸侯を九合して、兵車を以てせざるは、管仲の力なり。其の仁に如かんや、其の仁に如かんや。」
孔子が称賛しているのは、当時中国大陸に群雄割拠していた諸侯をして和平協定を結ばせた功績なのだが、それは管仲の、広い意味での力によるものだった、ということだろう。管仲はいったいどんな力を持っていたのか。
史記』によれば、斉の大臣として桓公の補佐となった管仲は、お家騒動でがたのきた国政を建て直すために、親友・鮑叔らとまず内政に取り組む。

彼らは五軒の家を単位とする兵員登録制を定め、物価の均衡と漁業や製塩業の利益を設定し、それによって貧しい者たちを救い、すぐれた人物・才能のある人物を召し抱えた。斉の民はみな喜んだ。(『史記世家 上 (岩波文庫 青 214-6)』p57)

次に、以前も引いたが、「衣食足りて礼節を知る」という故事成句の出典。

管仲が斉の宰相となって国政を担任すると、区々の斉ながら、海に面した地の利で、海産物を交易して財宝を蓄積し、国を富まし兵を強くし、民衆と好悪を同じくした。だからその著書(管子)でも、「倉廩がみちて民は礼節を知り、衣食が足って人は栄辱を知る。上に立つ者が節度を守れば六親の結合は固く、四維(四大綱領、礼、義、廉、恥)がゆるめば国は滅亡する」と言ってある。(『史記〈5〉―列伝〈1〉 (ちくま学芸文庫)』p16)

また、「貨殖列伝」には次のようにある。

斉の国力は一時おとろえたが、管子(管仲)がたてなおして、貨幣の流通を規制する九府の経済調節機関を設けた。これによって桓公は覇者となり、九たび諸侯の大集会を開き、一たび天下を匡した。(『史記列伝 5 (岩波文庫 青 214-5)』貨殖列伝p153)

孔子も称賛した管仲の力の源泉が、斉の経済力であり、管仲が名宰相とうたわれるようになったのも、その経済政策「物価の均衡と漁業や製塩業の利益を設定」、「海産物を交易して財宝を蓄積」、「貨幣の流通を規制する九府の経済調節機関を設けた」によることはもはや明らかである。これに関連する事績を『管子 (中国の思想)』(松本一男訳、徳間書店)から拾い読みしてみる。
なお、『管子』は、管仲本人の著作というより、管仲の遺徳を慕う人々が編んだ言行録なのであろうが、司馬遷が読んだものは比較的古くから成立していたものとして、管仲の政策をよく伝えているだろうと推定してみる。
権修編(九府)には、「為政者が農業を軽視し、商工業に力を入れすぎると、国土の開発は遅れる」(末産禁ぜざれば、野辟けず)、乗馬編には「土地は政治の基本である」(地は政の本なり)とあり、商業の抑制と農業の振興が管仲の経済政策の基本であったことが知れる。そのために物価統制を行ったらしい。

市況は物資の需要状況を示すものである。物価を下げれば商業利潤は薄くなる。商業利潤が薄くなれば、人民は商業に手を出さず、農業生産にいそしむようになる。人民の大多数が農業を本務と心得てそれにいそしめば、社会の気風は質実となり、国家の財政は安定する。(前掲書、p131)

一方でこんなこともやっている。

桓公が管子にたずねた。
「大商人のもうけをへらして農民の懐をうるおしてやりたい。よい策はないか」
穀物の価格があがれば諸物価はさがります。逆に諸物価があがれば穀物の価格はさがります。この二つは両立しません。ですから、大商人のもうけをへらして農民の懐をうるおすには、穀物の価格を一釜三百円にあげてやることです。そうすれば農民はきっと耕作にはげむようになると思います」
穀物の価格をあげるにはどうするか」
管子が答えるには、
「まず諸侯、大臣、上大夫に命じて穀倉をつくらせるのです。そしておいてから諸侯や重臣には千鍾、上大夫には五百鍾、中大夫には百鍾、豪商には五十鍾ずつ貯蔵させます。こうすれば国庫の貯蔵をふやすことにもなりますし、農民のふところをうるおすこともできましょう」
「なるほど」
桓公はすぐさま、諸侯、大臣、上大夫に命じて穀倉をつくらせた。買い手が多くなったために、農民は手持ちの穀物を高く売ることができ価格は三倍にはねあがった。その結果、大商人は打撃を受け、農民は莫大な利益をあげることができた。(前掲書、p165.引用文中「一釜三百円」とあるのは訳者松本氏の意訳で、原文は「釜三百」とだけある)

私は経済にはてんでうといので、はたしてこのとおりに行くものなのか見当もつかないが、農業生産物の市場に国家が介入して、商人が農作物を安く買いたたいて高く転売することができないようにしようとしたということなのだろう。また、農民にも穀倉づくりを奨励し、諸侯による米の買い占めにも歯止めをかけている(軽重編)。
このほか、『史記』にあるように塩の専売も行っている。塩は海に面した斉の特産品の一つで、これを内陸部の諸国に売りさばいて巨富を得ている(軽重編)。
斉が塩の交易によって利益をあげたということは、このころすでに多国間貿易がさかんだった証拠で、管仲の農業奨励・商業抑制政策というのも、保護貿易の一環だったのではないかと思うのだが、素人考えなので、経済に明るい人の教示を乞いたい。
管仲の経済政策は、富を貯め込むばかりではなかった。豊作の地域に増税して不作の地域に穀物を配給したり、また、次のようなことも行っている。

桓公が言った。
「大夫たちは、財産をかきあつめ、穀物を腐らすほど蓄えているのに、なかなか分配したがらない。どうも困ったことだ」
管子は答えた。「城陽の大夫をお召し出し願います」
「どうするのか」
城陽の大夫は、お気に入りの女には細絹やうす麻のぜいたくなよそおいをさせ、米であひるを飼い、管弦雅楽にふけるなど、ぜいたくの限りをつくしています。ところが、他人はむろんのこと、身内の者すら寄せつけません。叔父伯母や親戚一同はみな飢えに苦しみ、寒さにこごえております。きつくご処分なさるべきかと存じます」
桓公は、城陽の大夫を召出して詰問した。
「お前はわたしに忠義をつくしたいなどといっているが、暮らしぶりを見ると、とても忠義どころではなさそうだ。二度とお前の顔は見たくない」
そして官位を剥奪してちっ居をおおせつけた。
この措置におどろいたほかの功臣たちは、ためこんだ穀物や財産を、争って寄附した。身内の者にやっただけでなく、国中の貧民、病人、孤児、やもめ、老人、生活困窮者にわけあたえた。こうして桓公は仁義を行い、功臣は一族むつましくなった。その上、斉の国には飢えに苦しむ者が一人もいなくなった。これも一種の奇計である。(前掲書、p169)

「故に桓公、仁を推し義を立て、功臣の家、兄弟相親しみ、骨肉相親しみ、国に飢民なし」というが、実際には桓公がしたのではなく、管仲がやらせたのである。「仁を推し義を立て」は松本氏が「仁義を行い」と訳しているように、善いことをしました、という程度の意味なのだろうが、あえてこれを仁と義に分割して考えてみると、次のような仮説も考えられないだろうか。すなわち、城陽の大夫の贅沢三昧を糾したのが「義」、それによって「国中の貧病孤独、老いて自ら食うこと能わざるの萌を収めて、皆得るに足」らしめたのが「仁」ということになるのではないだろうか。もちろん、『管子』の仁と義が儒家の仁と義とどのような関係になるのかは慎重に考えなければならないことだろうし、また私のような素人に思いつき以上の仮説が出せるとも思わない。
漢文も読めず、経済にもうとい私にはよくわからないことが多いが、ともあれ、管仲の富国強兵策の、富国の部分はこのようであったようだ。

付記

気にかかっていながら放っておいた浅野裕一・湯浅邦弘編『諸子百家〈再発見〉』を読んで驚嘆する。中国では一九七〇年代から秦漢時代の出土史料の発見があいつぎ、私が学生時代に習った中国思想史はもはや過去のものとなりつつあるようだ。専門家諸氏にはいろいろと議論があるようだが、私のようなど素人にとっては、とりあえず、司馬遷の『史記』を頼るほかないようだ。司馬遷は『管子』については、牧民・山高・乗馬・軽重・九府の諸編を読んだと記している。

諸子百家「再発見」―掘り起こされる古代中国思想

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