『史記』どうして孔子は管仲に手厳しいのか2

孔子管仲を高く評価したがらなかった理由として、もう一つ、孔子は斉という国をあまり高く評価したくなかったのではないか、という気もする。
論語』微子編には、斉の景公が、いったんは孔子を採用しようとするが、気が変わって内定を取り消すエピソードがある。また、この内定取り消しの記事の後、斉が(孔子の仕えていた)魯に美女軍団を送り込み、魯の有力者が骨抜きにされているのを見て、孔子が魯に見切りをつけた、という記事が載っている(岩波文庫、p364-365)。孔子管仲をこきおろしたのが、これらの件以後のことであれば、話は簡単だ。坊主憎ければ袈裟までで、大国斉の中興の名臣だって礼儀知らずさ、と言いたくなった、と考えられる。
しかし、『論語』には日付がない。孔子管仲のことをあんな礼儀知らずはいない、と酷評したのがこうした事件の前なのか後なのかは、わからない。そこで、斉に対する孔子の心証を悪くしたかもしれない傍証をほかに探すことにしてみる。

魯と斉

孔子が生まれた国、魯と、管仲が治めた国、斉は、隣り合っているだけではなく、いろいろと因縁の深い国である。
魯は殷周革命をなしとげた武王の弟、周公旦の子、伯禽の封ぜられた国であり、周の「成王は魯に命を下して、魯が郊の祭りを行なうこと、また文王を祖として祭ることを認めた。魯に天子の礼法や音楽が存したのは、成王が周公の徳を讃えんとし〔て魯にそれらを認め〕たためである」(『史記世家』魯周公世家p105)。
斉は殷周革命の功労者、太公望の封ぜられた国である。周が天下を取った後も反乱が相次いだため、文王・武王の軍師であった太公望は「五候・九伯については、汝が討ち平らげよ」と乱の平定を任され、斉は大国となった(『史記世家』斉太公世家p50-51)。
魯と斉の建国当初のエピソード

魯公伯禽ははじめて封を受けて魯におもむくと、三年後に、周公に魯の政治について報告した。周公はいった。「なぜこんなに遅くなったのか」。伯禽は答えた。「風俗を変え、礼法を改めて、喪は三年服して終わることにしました。それで遅くなったのです」。太公(太公望呂尚)も斉に封ぜられ、五ヶ月後に周公に政治の報告をした。周公はいった。「なぜこんなに早いのか」。答えて、「わたくしは君臣の間の礼法を簡単にし、民の風俗に従いました」。あとになって伯禽の遅い政治の報告を聞いて、周公は嘆息していった。「ああ、魯は後世臣下となって斉に仕えることになろう。そもそも政治は簡素で容易でなければ、民は親しまない。公平簡易で民に親しまれれば、かならず民はそのもとに身を落ち着ける」。(『史記世家』魯周公世家p106)

その後、以前に記したとおり、斉の襄公と魯公に嫁いだ妹と魯公の近親相姦・三角関係殺人事件が起こり、引き続いて、斉のお家騒動から、魯の公女の産んだ斉の公子糾とその守り役であった召忽・管仲が魯に亡命する騒ぎがあり、斉の襄公の妹の子である魯の荘公がこの騒動に乗じて、管仲ら公子糾一派を擁して斉の内紛に介入しようとしたが、桓公の即位によって阻まれた一件がある。
この後、魯の荘公と斉の桓公の間に領地争いが起こり、和睦の席上、魯の将軍が桓公匕首を突きつけて、魯から奪った土地を返せ、と脅迫する事件が起きた。桓公が命惜しさにそれを承諾した後、危険が去ってから前言を翻そうとすると、管仲が諫めていった。「そもそも、脅迫されて承知した後で、信義に背いて殺すのは、ちっぽけな満足を得るに過ぎず、諸侯の信頼をなくし、天下の支持を失ってしまいましょう。それはなりません」(『史記世家』斉太公世家p58)。これによって斉は魯から奪った領地を返したが、管仲は諸侯の信頼を得ることができた。「だから、『与えることこそ、取る手段と知るのが政治の秘訣である』といわれるのである」(『史記列伝』p17)。

二人の哀姜

魯と斉の因縁を示す別のエピソードがある。これは史実というより、説話に近いものかも知れない。というのも、時を隔てて、哀姜という同じ名で呼ばれる二人の女性が登場するからである。あるいは哀姜という名は、斉から嫁いできた公女を、哀れな姜氏(斉公室の姓は姜氏)の女、という意味で魯人がそう呼んだのかも知れない。
哀姜1は、斉の桓公の妹で、魯の荘公の正夫人である。魯の荘公の母は、斉の襄公の妹であるから、荘公は叔母を妻にしたわけだ。おそらく魯と斉の手打ちのあと、和睦の印として政略結婚がセットされたのだろう。こういうことは近代以前ではざらにあったこととはいえ、荘公の父が夫人である襄公の妹と襄公の近親相姦のとばっちりで殺されたばかりであるから、再び斉公の妹を国君の夫人として迎えた魯の人々は複雑な心境であったろう…、などとのんきに言っていられないような複雑な人間関係である。
人間関係というものは単純な方がよいとばかりは言えないが、斉から嫁入りしてきた哀姜1を中心にした人間関係はさらに複雑さを増していく。
魯の荘公夫人となった哀姜1には、妹(または妹分)の叔姜が付き添ってきた(叔姜というのも哀姜の妹分という意味の呼び名であろう)。哀姜1と荘公の間には男子が産まれず、叔姜との間に公子開が産まれた(このあたり、イワナガヒメコノハナサクヤヒメを連想するが、脱線はやめておく)。
さて、荘公には叔姜に産ませた開のほかに、側室に産ませた斑という子がいた。荘公の跡継ぎ候補は、実子の開と斑と、荘公の弟たちのうち年長の慶父、の三人である。哀姜1は、このうち義弟である慶父と密通していた。荘公の死後、いったんは荘公の寵愛していた斑が魯公の位につくが(荘公は後継に慶父を推していた二番目の弟、叔牙を自殺に追い込んでいる)、哀姜1は愛人慶父と組んで斑を暗殺させ、甥の開を魯公にする。ここでやめておけばよかったものを、哀姜1と慶父は、開を殺して慶父を魯公にしようとする。これにはさすがに国内でも反対の声が大きく、慶父は自殺を余儀なくされ、荘公の末弟季友が荘公の末子申を位につけた。
この騒動を伝え聞いた斉の桓公は、妹の哀姜1を呼び寄せて殺し、その遺体を魯に送り返した。
これが哀姜1の事件である。
さて、申の子、魯の文公は、もういい加減によせばいいのに、と思うのだが、これまた同盟強化のための政略結婚であろう、斉の公女を夫人にした。これが哀姜2である。
哀姜2は二人の男の子を産んだが、文公の死後、魯の有力者である襄仲は、文公の側室の子を位につけようとし、斉の恵公の強力を取り付けた上で、哀姜2の二人の子を殺した。

哀姜は斉に帰る前、哭(死者を悼んで声をあげて泣くこと)しながら魯の市場を通り、いった、「天よ、襄仲は無道を行ない、嫡子を殺して庶子を位につけました」。市場にいた人たちもみな哭した。それで魯の人々は彼女を「哀姜」(哀れな姜、姜は名)と呼んだ。(『史記世家』魯周公世家p118)

自分の子を殺した襄仲は、哀姜2の実家である斉の協力を得ていたわけだから、彼女は天に訴えるほかない。魯の人々が同情したのも当然である。後に季文子(季友の子)は「嫡子を殺して庶子を位につけ、わが国に対する諸侯の大きな援助を失わせるにいたらせたのは、襄仲のせいである」と弾劾している。哀姜1がむしろ悪姜とでも呼びたいところであるのに対して、哀姜2の物語は、いかにも哀話であって、「哀姜」の名にふさわしい。斉から嫁入りした公女の物語ということで混同されたのだろうか(そうとも思えない)。
ところで、哀姜2のエピソードも、単なる悲しい話で終わらず、政治的な余波を残している。『史記』は、哀姜2が魯をさった後、「このことから魯では公室が力を失い、三桓(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)が強力となった」と記している。三桓とは、哀姜1の事件の時の慶父、叔牙、季友の三兄弟をそれぞれの始祖とする三家である。この三家は、その後も勢力を維持し、孔子の時代には、魯は事実上、三桓氏の支配下にあった。とくに哀姜1の事件の収拾役をつとめた季友、哀姜2の事件の敵役襄仲を弾劾した季文子の子孫である季孫氏の勢力は絶大で、対立した君主(魯の昭公)を追放するほどであった。権力の正統性にこだわった孔子は、この季孫氏の権勢を苦々しく思っていた様子が『論語』にから読みとれる。
ともあれ、魯の君主権力が弱体化していく過程で起きた三つのお家騒動には、みな斉から嫁入りした公女(襄公の妹・桓公の妹・哀姜2)が関わっている。実際は彼女らは外交ゲームのコマにすぎなかったのかもしれないが、これらの事件は、魯の政治が隣の大国斉の意向を無視しては行えないことを示している。

負け惜しみ

魯に生まれ、一時仕官先を求めて外遊してもいるが、魯の定公に仕えて外交で名を挙げたこともある孔子としては、経済力とそれに裏付けられた軍事力を持って魯に圧力を加える隣国斉は、うとましい存在ではなかったか。
孔子が斉を訪れた際、孔子はその音楽に聴き惚れて三ヶ月もの間、食事もうわの空だったという(「子、斉(せい)にありて韶(しょう)を聞く。三月肉の味を知らず。曰く、図(はか)らざりき、楽(がく)をなすのここに至るや。」『論語』述而編 )。音楽は礼とともに孔子が非常に重んじたいにしえの文化である。つまり、孔子は日頃、わが魯こそ周以来の古い文化が伝えられている由緒正しい国だと言っておきながら、現実に斉の文化にふれるやそれに圧倒されているのだ。
にもかかわらず次のようなことを孔子は言う。

子曰く、斉(せい)、一変(いっぺん)すれば魯(ろ)に至り、魯(ろ)、一変すれば道(みち)に至らん。 (岩波文庫だとp120)

斉を改革すれば魯になり、魯を改革すれば天下を取れる、という。しかし、『史記』を見る限り、孔子の活躍した当時の魯は、内紛続きで、両隣の大国、斉と晋の顔色をうかがわなければ立ちゆかないほど弱体化しており、天下などは夢のまた夢という有様である。我田引水のお国自慢というものだろう。
仮に改革するとしても、それは孔子の考えていたような、古来の王朝儀礼を復活させて君主権の正統性を顕示する、という方向ではなく、むしろ、管仲のしたように、農業生産力を高め、法令を整備して私的蓄財を制限し有力者間の内紛を抑制する、ということがまずなされなければならなかっただろう。当時の魯に必要だった人材は、孔子よりも管仲であろう。その管仲を、礼儀知らず、と罵ったところで、これはもう負け惜しみとしかいいようがない。

付記

司馬遷は内紛続きの魯の歴史を叙述したあと、こう評している。
「謙譲の礼法は、形は守られてはいるが、その実行はなんと誤っていることだろう。」
このあたりが考えどころか。