『孟子』の「惻隠の心」

孟子は、幼い子どもが井戸に落ちようとするのを見かければ、誰しも思わず助けようとするだろう、と言い、その気持ちこそが仁の萌しだという(惻隠の心は、仁の端なり)。(『孟子岩波文庫、p141)
この仁の端を、家族から友人・同僚、地域社会の隣人、やがてはすべての人びとにまで、同心円的に波及させていくのが孟子の考える仁の実践である。
ジュリアンは、『道徳を基礎づける』で次のように言っている。

これらの例から、普遍的な原則が導かれる。「誰もが、他者の身に起こることに忍びざるものがある(人皆有所不忍)」。この忍びざる感情を、他者の身に起こりながら忍びうるものにまで及ぼすこと、それが「仁」の感情である(尽心下31[達之於其所忍、仁也])。誰にとっても、他人が不幸に沈んでいる時に、無関心でいられず、反応を引き起こすものがあるということ、それが「仁」なのだ。
〈中略〉したがって、中国的な観点からすると、道徳性にはいかなる要請もない。そこには、命令もなければ掟もない。あるのは拡充だけなのだ。耐え難いものへの反応を、その苦境を見て見ぬふりをしていることにまで及ぼすことである。(p26)

私にはいささか大げさなタイトルと感じられたので、これまで読まずにおいたジュリアンの孟子論だが、開いてみるとなかなか面白い。私が同心円的な波及というイメージでとらえていたことを、ジュリアンは「拡充」という。

この道徳性を構成する拡充は、二つの次元で現実化される。一つは、西洋人にも当てはまる次元で、たまたま見た他人の苦境を前にして発揮される忍びざる感情を、すべての経験にまで及ぼすことである。他人を愛することを、まだ愛していないことすべてにまで及ぼしたり(尽心下1[仁者、以其所愛及其所不愛」)、容認できないという感情を、非難されるべきことながら、なおも容認していることすべてにまで及ぼすことである。もう一つは、西洋人の外にある次元で、まずは王から(梁恵王上7[推恩])立派な手本を、他人に広げること、より近い者からより遠い者へ波及させることである。[老吾老、以及人之老、幼吾幼、以及人之幼]。「推し及ぼす(推)」「及ぼす(及)」「広げる(拡)」、これらは『孟子』の鍵となる概念である。なぜなら、道徳性とは、燃えあがる火、溢れ出す泉のようなものだからだ(公孫丑上6[凡有四端於我者、知皆拡而充之矣、若火之始然、泉之始達])。(p27-p28)

明晰判明に定式化してくれているのだが、疑問がないわけではない。
まず、先に引用した文の「中国的な観点」という表現、孟子一人に中国を代表させるのは少し大雑把すぎやしないか。道家墨家が怒るんじゃないか。同じ儒家だって、荀子は、オレは孟子のようなデタラメはいわん、とつむじを曲げそうな気がする。
第二に、後に引用した文の、拡充を現実化する二つの次元について。「たまたま見た他人の苦境を前にして発揮される忍びざる感情」とそれを「より近い者からより遠い者へ波及させること」の関係について、どうも釈然としないものが残る。
孟子墨家の夷子との討論で、墨子の兼愛説に反論しながら(その反論は成功していないとわたしは思うが)、明らかに「より近い者からより遠い者へ」、内から外へ、中心から周縁へ、それも血縁の濃い者から薄い者へ、関係の深いものから浅い者へという順序にこだわっている。それは孟子のレトリックによれば「燃えあがる火、溢れ出す泉のようなものだから」なのかも知れないが、これは仁の端である惻隠の心から自然に導き出されたものというよりは、何か別の基準から要請されたもののように思われてならない。この拡充の順序には、どこか命令、あるいは掟の匂いがする(ordre)。これは礼と関係する問題かも知れないが、孔子孟子との関係も、いや、そもそも孔子の仁と礼もよくわからなかったので、今は棚上げにしておく。
ともかく、仁の拡充の順序がどうであろうと、仁の萌しである惻隠の心は、いきなり働いてしまう。その例として孟子自身が、生贄にするために引かれていく牛と目が合ってしまい、思わずその牛を助けた斉の宣王のことを挙げている(『孟子』上、p52-p56)。ジュリアンもこれをたいそう面白がって第1章の冒頭に引いて、「すなわち、他の存在(それが動物であっても)と暗黙のうちに関係が生じ、たとえ一瞬でもそれに対面すると、人はそれに無感覚ではいられなくなってしまうのだ」と評している(ジュリアン、p23)。
孟子が挙げているもう一つの例が、井戸に落ちそうな子どもを助ける話である。ジュリアンはこう評している。

ここでは、個人的なものは乗り越えられている。わたしは突然、自分の行動を主導することも、利己的な目的をつかさどることもなくなる。自己を通り越して、自己に背いて他者のために動く存在者がせり出てくるのである。(ジュリアン、p24)

孟子の言う惻隠の心の発現がジュリアンの言うとおりだとすると、血縁や共同体の秩序、君臣関係にこだわる必要はなくなってくる。孟子は宣王に、牛を可哀相と思いやる気持があれば、それを治下の臣民に、やがては天下の人民に及ぼしなさいませ、と仁政をしくことを進言するのだが、具体的な手順としてはそうするのが便宜にかなってはいるとしても、その発端である惻隠の心はすでに同心円的波及の範囲を超えたところから到来しているように私には思われる。

付記

孟子』を読みながら同心円的波及というイメージを描いたのは、学生時代に少し学んだベルクソンを思い出していたからである。ベルクソン孟子をよく知っていたかどうかは知らないが、孟子のいうような共感(共苦、憐れみ、同情)の同心円的波及のあり方を問題にしている文章がある(白水社版全集ではp38-p39)。ベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』において、「どんな大きなものであれ国家と、人類の間には、有限と無際限の、閉じられたものと開かれたものとのすべての距離が存する」として、次のような考え方は錯覚だとする。

公民としての徳の習得は家庭において行われるとか、同様に、祖国を深く愛することは人類を愛する準備だとか、いうことが好んで言われる。われわれの共感は、このような漸進的進歩によって拡大し、同一のままで増大し、ついには人類全体をも包含することになろう。

孟子の説くところとそっくりに見えるこのような見解について、ベルクソンは「魂を全く主知主義的に理解することに由来する先験的な推論である」という。孟子性善説というのも人間性についてのア・プリオリな推論ということになろうか。

しかし、くりかえしていうが、われわれの生活している社会と人類一般の間には、閉じられたものと開かれたものとの間にあるようなコントラストが存在している。両者の間の相違は、本質的なものであって、単なる程度の差ではない。
〈中略〉われわれは両親や市民仲間を自然に、また直接に愛する。ところが、人類愛は間接的であり、後天的なものである。
〈中略〉われわれは家族と国家とをとおり段階をへて人類に達するのではない。われわれは、一足飛びに人類よりもはるかに遠いところに赴き、それを目的とすることなく、それを超えつつ、人類に到達したのでなければならない。