人間は彼が食べるところのものである

哲学者のフォイエルバッハは『孟子』を読んでいたようである。晩年の著作『唯心論と唯物論』で「中国の哲学者は正しい」と書いている。19世紀ドイツの唯物論者が『孟子』の何に感心したかというと、告子章句上八の易牙のエピソードなのだ。
「個体主義または有機体」の章でフォイエルバッハは、感覚における普遍と特殊の問題について論じる際に、味覚を例にとって、料理の味の好き嫌いは人それぞれであると指摘しながら、「それにもかかわらず味覚は自余の諸器官よりも少なくない程度に普遍妥当性に対する要求権をもち且つ実際に要求する」とも言う。このことはグルメ番組を見れば一目瞭然。何が美味いかは人それぞれであるのに、何がもっとも美味いかについて議論を繰り広げているのだから。
フォイエルバッハは味覚の普遍妥当性の要求の例として、『孟子』を引用している(フランス語訳からの重訳だろうか?原文で読んでいないのでわからないが…)。以下の部分である。

易牙先得我口之所耆者也、如使口之於味也、其性與人殊、若犬馬之與我不同類也、則天下何耆皆從易牙之於味也、至於味、天下期於易牙、是天下之口相似也、

食べ物の味の好き嫌いは人それぞれとはいえ、犬や馬と比べたら、人類の味覚の許容範囲は限られてくる。そこで易牙は人類であれば万人が好むだろう共通の美味さをさぐり出したのだという。ここで孟子は「類」という概念を用いているが、これにフォイエルバッハは感心した。

中国の哲学者は正しい。犬共や馬共――一般に人間たちとは区別された諸存在者――に比較または対立しては、人間の諸個体相互間の諸区別は消滅する。そしてそれはちょうどまたわれわれにとっては、或る種または或る類にぞくする動物的諸個体――とくに動物界のいっそう低い諸段階における諸個体――相互間の諸区別が消滅して無になるのと同じことである。

ところで、易牙と言えば、斉の桓公に取り入るために、自分の子どもを殺し料理して出したエピソードが強烈過ぎて忘れ難い。
韓非子』で読んだ。「桓公好味,易牙蒸其子首而進之」とある。メニューは頭の蒸し焼きだったらしい。
料理をした易牙も酷いが、出されて食った桓公も相当なものだ。ほどよく蒸し上がった子どもの脳みそをスプーンですくって舌鼓を打ったのだろうか。しかも、この料理人を能臣管仲の後釜に据えようとしたのだから、よほどの暗君だろう。管仲は止めている。

公曰:「然則易牙何如?」管仲曰:「不可。夫易牙為君主味,君之所未嘗食唯人肉耳,易牙蒸其子首而進之,君所知也。人之情莫不愛其子,今蒸其子以為膳於君,其子弗愛,又安能愛君乎?」

管仲の遺言を聞いておけばよかったのにそうしなかったため、桓公は見苦しい死にざまを遂げ、国は乱れた。
はたしてフォイエルバッハはこのエピソードを知っていたのだろうか。彼の著作には『犠牲の秘密、または人間は彼が食べるところのものである』というのがあるそうだが、まだ読んでいない。