アレント『革命について』1 「忙しくなるのでしばらく休みます」と言いながら

老子』に深入りするとたいへんなことになりそうな気がしてきたので、いつかまた舞い戻ることにして、倫理への関心は維持したまま、少し方向を変えて別の本を読んでみる。
惻隠の心といってもいつでも誰でも萌すとは限らないと書いたが、だからといって、孟子の惻隠の心、ルソーの憐れみの感情のような善き自然の効用を私は否定しようとは思わない。ただ、id:x0000000000さんが「誰かの善意をあてにして設計された社会が、果たして正しい社会であるかどうか」と問うたように、それに頼り切るわけにはいかないだろう。ジュリアンのように「社会の基盤」とまでいうのはどうかと思う。
似たようなことを考える人はいるものだ。アレントもそう思ったらしい。彼女は、アメリカ革命(=独立戦争)とフランス革命を対比した文章で次のように言う。

歴史は、人が不幸を目撃したときに必ずしも哀れみの心を起こすものではないことを物語っている。(アレント『革命について』、p107)

アレントは、フランス革命においてはルソーのいう「同胞の困苦を見るにしのびない生来の感情」、「同情(コンパッション)の情熱はあらゆる革命の最良の人びとの心につきまとい、彼らを突き動かした」のに、アメリカ革命においては「同情が主役たちの行動の動機としてなんの役割も果たさなかった」という。アレント奴隷制を指摘する。アメリカ独立の指導者たちは当時約四〇万人はいたはずの奴隷の存在に無関心であった。そして、「ヨーロッパの社会状態を見て同情に突き動かされた十八世紀ヨーロッパの目撃者たちもこれと異なった反応を示さなかった」(前掲書、p108)。

アメリカでは)社会問題はすべての実際的目的としては存在せず、それとともに、革命家たちを突き動かすもっとも強力で、おそらくもっとも破壊的な熱情、同情の熱情は存在しなかった。(前掲書、p109)

ネオリベラリズムの精神

ここでちょっと同情の問題から脱線するようだけれども、先に引いた文章に続いてアレントが述べていることが、最近よく話題になる問題にあまりにも似かよっているので、書き留めておきたい。

誤解を避けるためにいうのだが、革命において果したその役割のためにここで扱っている社会問題を、ここ数十年のあいだに社会科学の主要課題となっている機会平等の欠如とか、社会的地位の問題と混同してはならない。地位追求のゲームは今日の社会の一定の層ではきわめて一般的であるが、十八世紀と十九世紀の社会には完全に欠けていた。また、それを人びとに知らせ、このゲームの規則を権利なき人びとに教えることが自分の任務であるとは革命家はだれひとり考えなかった。(前掲書、p109)

このごろ、ネオリベラリズムといわれている社会現象になんと似かよったことか。ちなみに、アレントのこの本が刊行されたのは1963年、私の生まれた年だ。してみると、最近ネオリベラリズムと呼ばれている問題は私の生まれる前から、アレントは「ここ数十年のあいだに」と言っているから、少なくともいまから六十年は前から問題にされていたわけだ。どうも社会は、同じ問題のまわりをぐるぐる回っているのではないか、と思わせられる。
興味深いのはこの点だけではない。アレントは「このような今日の範疇」すなわちネオリベラリズムの精神は十八世紀のアメリカ建国当時の精神とは縁遠いものであり、それは「教育問題にたいする彼らの態度のなかにもっともよく示されている」という。アメリカの創設者たちの教育観に欠けていたものとは次のようなものである。

天分を完全に発展させる個人の権利にたいして示した十九世紀の自由主義者流の関心であり、才能の抑圧につきものの不法行為にたいするこれら自由主義者たちの特別な敏感さ――それは天才にたいする彼らの尊敬の念と密接に結びついていた――である。このようなものが欠けていた以上、まして、各人が社会的権利の向上、したがって教育の権利をもつのは、彼が天分に恵まれているためではなく、社会が彼の地位を改善する能力の開発を彼に追うているためであるという今日の観念が欠如しているのは当然であった。(前掲書、p109-p110)

これは注意深く考えなければならない指摘である。うっかりすると、ネオリベラリズムにウンザリするあまり、教育の平等を否定する結論を導きかねない。しかし、(アレントの指摘が正鵠を射ているならばであるが)考えようによっては、教育における競争原理を批判する視点を考えるきっかけになるような気もする。拙速は避けて、後々の考えるヒントとして書き留めておくにとどめる。