破壊的性格3

以下の記事、僕自身わかって書いているわけではないのです。
ほんの数頁の短文の意味が分からず闇雲に、研究書も参照せずに、ただ、ベンヤミンの謎かけに、素手で反応しながら書きなぐっているのです。
つまり、ベンヤミンを読んでいるのではなく、ベンヤミンに読まされているのです。ベンヤミンに問いかけられて、無知な自分を丸出しにしているところです。
情けない話ですが、呆け中年のリハビリだと思ってその点ご了承ください。

 破壊的性格は、仕事にあたって、いつも新鮮さを保っている。その仕事のテンポを、少なくとも間接的に、規定しているものは、自然である。なぜならかれは、自然よりも先廻りしなくてはならないのだから。さもないと自然が、破壊作業を自分の手で引き受けてしまう。
 破壊的性格は、いかなるヴィジョンも思い浮かべていない。かれにはほとんど欲望というものがない。破壊されたものの代わりに何が立ち現れるかなど、かれの知ったことではなかろう。これまで事物があった場所、犠牲者が生きていた場所に、さしあたり、せめて一瞬間、何もない空虚な空間が出現する。その空間を占有することなく使いこなせるひとは、必ずや見つかることだろう。

先に見たパラグラフ「破壊的性格は、場所をあけろ、というひとつのスローガンと、片づけてしまう、というひとつの活動しか知らない。新鮮な大気と自由な空間とをもとめるかれの欲求は、どんな憎しみよりも強い。」と響きあうところだ。
破壊はあくまで人間的営為である。
自然は「世界は破壊されるに値いするか」などと問わない。ただ終わらせるだけである。いや、それは自然にとっては終わりですらない。生成変化に始まりや終わりを見出すのは、人間の文化的営為である。
だから、破壊的性格には「ほとんど欲望というものがない」と言われるにもかかわらず、そこには何かしら強い意志が感じられるし、その破壊作業にはどこか爽快感がある。ここに、漠然と感じられていた破壊的性格の明るさ、その光源が垣間見える。破壊的性格が嫌うのは、ずるずるとなし崩し的に閉塞することであろう。
破壊的性格は、「新鮮な大気と自由な空間」を求めて突破口を開く。それに専念する。
「その空間を占有することなく使いこなせるひとは、必ずや見つかることだろう」。この言葉は、投げやりなものではなく、あとはよろしく!という快活な言づてのように私の耳には響く。

 破壊的性格は、そのなすべき仕事をするが、ただし創造的な仕事だけは避ける。創造者が孤独をもとめるとすれば、破壊者は絶えずひとびとに、かれの活動の証人となるひとびとに、取り巻かれていることを必要とする。
 破壊的性格は、いわばシグナルである。三角測量の標識があらゆる方面からの風にさらされているように、かれはあらゆる側からのおしゃべりにさらされている。これにたいしてかれを守ることなどには意味がない。
 破壊的性格は、理解されることにはぜんぜん興味をもたない。この方面での努力を、かれはあさはかだと考える。誤解は、かれにはなんの害もあたえない。逆に、かれは誤解を挑発する−−かつて破壊の国家的制度だった神託が、誤解を挑発したように。あらゆる現象のうちでもっとも小市民的なものである噂話は、ひとびとが誤解されたがらないがゆえに生まれる。破壊的性格は、平気でひとに誤解させておく。騒いで噂話をかきたてたりはしない。(ベンヤミン「破壊的性格」より)

この一連の文章は、破壊的性格が社会的諸関係のただなかにあること、またその破壊作業も社会的諸関係のなかで意味を持つことを示している。
そのうえ「活動の証人となるひとびとに、取り巻かれていることを必要とする」以上、破壊的性格は、すぐれて演劇的キャラクターである。
したがって、以前に連想したように、破壊的性格をアレゴリー的人物と考えてもさしつかえなさそうな可能性は高い。
破壊的性格は、もう一つのアレゴリー的人物類型と共演している。小箱型人間という。

 破壊的性格は、小箱型人間に敵対する。安楽をもとめる小箱型人間は、ただの容れものに化身している。小箱の内部にビロードを敷きつめて収められているのは、かれが世界に押しつけた痕跡だ。破壊的性格のほうは、破壊の痕跡さえも拭い消している。(ベンヤミン、同上)

小箱型人間と破壊的性格の演じる芝居は、現代史の幕間で演じられる喜劇であろう(「アレゴリー的なものに対して、世俗劇のなかに棲まう市民権を与えるのは、喜劇だけである」『ドイツ悲劇の根源』下巻、p82)。
この二人の道化は、伝統主義者の2類型としても語られる。

破壊的性格は、伝統主義者たちの第一線に位置する。伝統主義者たちのなかには、事物にひとの手を触れさせまいとして、事物を缶詰にして伝達するひとたちと、状況をひとの手に捉えやすくし、状況を流動的にして伝達するひとたちとがいる。この後者が、破壊的と呼ばれるひとたちである。

ようやくここで、これまでおぼろげだった破壊的性格の輪郭が像を結んできたように感じる。
「状況を流動的に」する活動は、小箱型人間の缶詰づくりとは対極的に、破壊的であり、誤解もされる。小箱型人間によって缶詰になった事物はひとの手に触れないがゆえに誤解されることもないが、それはただうわさ話のタネを提供するだけである。
しかし「破壊的性格は、理解されることにはぜんぜん興味をもたない」、むしろ「誤解を挑発する」。もともと「破壊的性格は、いかなるヴィジョンも思い浮かべていない」のだから、その意図を忖度してもしかたがなく、誤解も六階もない。
破壊的性格は、ただひたすら、場所をふさいでいるものを片づけ、小箱や缶詰の蓋を開ける。それによって状況は流動化し、人の手で捉えやすくなる(私も少しは部屋を片づけた方がいいかもしれない)。
破壊的性格は、救済者ではないだろうし、間違いなく建設者ではない。ただ、開放者ではあるかもしれない。もっとも解放はせず開放するのみだが。「その空間を占有することなく使いこな」す役割は別のものに託される。
つまりトリックスターのような役割なのかもしれない、とも思える。
ところで、原典で読んでいないのにこういうことを言うのは軽率(というかお馬鹿)だということは重ね重ね承知のうえで、あえて言うのだが、訳書からの印象でしかないけれど、ベンヤミンの文体はカフカの掌編に似ているような気がする。