「拈華微笑」のこと

「拈華微笑」の逸話とは、どなたもご存じの通り、次のようなものです。

「世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり、惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」。

これは『無門関 (岩波文庫)』から引いたのですが、西村恵信氏による訳注には次のようにあります。

この話は中国の偽経である『大梵天王問仏決疑経』拈華品第二に見える。

中国の偽経というのは、インド原典がなく中国で創作された経ということです。
これを読んで私は仰天したのです。
不立文字、教外別伝と言って、経すなわち釈尊の説法の記録(とされるもの)に依拠しないことを標榜する禅宗が、仏教としての正統性を担保しているのは、この「拈華微笑」の逸話に他なりません。
それなのに、その起源神話を記した文献がこともあろうに偽経だったとは!
もちろん、達磨大師の口伝をあとになって書き留めたということはありうるけれども、それならそうと伝えればよい。論として書くという方法もあります。なにも偽経をでっち上げなくてもよいではないかと思わざるをえません。
もちろん、これは禅宗に限ったことではありません。大乗経典はみな、釈尊の説法の記録(経)という形式に倣って創作された宗教文学だと言われています。「経」という語を厳密に受けとめれば、「般若経」も「華厳経」も「法華経」も「浄土三部経」も「大日経」も、すべて偽経です。
ちなみに、仏教の戒律は、出家者用のものは何百とあるそうですが、在家信者に向けて説かれた簡素なものとしては五戒と十善戒とがあって、その最初の四つは共通しています。すなわち、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語。この四つが共通しているということは、せめてこれだけは心がけてね、ということでしょう。このうち不妄語は「嘘を言うな」です。
こんなことは大乗経典の作者たちは熟知していたことでしょう。それなのに、仏教としての正統性を疑わせるような、経典創作という所業に及んだのはなぜか?
しばらく前から関連書などを読みながら考え込んでいるのですが、まだ結論が出ていません。