教育基本法改正のメリットとデメリット

以下、ある方への私信として書いたものを少し書きあらためて掲載します。もとが私信なので、議論の粗いところや、かなり単純化しているために無理なところもあろうかと思います。あしからずご了承ください。

教育基本法の性格

まず第一に、すでにご承知でしょうが、現行の教育基本法はなにをどう教えるかを定めた法律ではありません。ですから、公共の場でのマナーとか経済教育とか、具体的な教育内容にはふれないことになっています。すでに学校で教えられている英語も音楽も理科も、この法律ではなんの規定もないのはそのためです。
平たく言えば、政府がよかれと思って教育について命令しても裏目に出る場合もあるからよけいなことはするな、というのが今までの法律の主旨です。
なぜ、政府に対して規制をかけるかというと、国家の教育行政が暴走すると全国レベルで影響が出るので取り返しがつかないからです。そこで、戦前の教育勅語皇国史観みたいな特定の価値観を政府が持ち上げるのはやめておけ、というわけです。
これは一個人レベルや一学校レベルで禁止しているわけではありません。ある私立学校が教育勅語皇国史観を教育の指針にしたっていいんです(現にあります)。戦前的価値観だけではありません。キリスト教系や仏教系の学校では宗教教育も行っています。ちなみに私の出身高校はキリスト教系で、従弟は仏教系でしたからよく憶えています(「うちの学校、聖書の時間があるんだよねー」、「俺んとこ、朝礼のたびにお経読まされてる」)。他にも、いろいろな教育方針を掲げた学校があります。
そうした私学の個々の取り組みはかまわない。ただ、政府がいろいろな考え方のうちどれかを正しいものとして法律で命令すると、これは全国津々浦々、全部に影響しますので、今で言えば北朝鮮みたいな社会になっちゃうからそれはやめろと、言っているわけです。
つまり、いかに文部官僚が優秀であっても人間だから間違えることや暴走することもあるだろうから(現に戦時中は暴走したし)、具体的なことは現場の創意工夫に任せることで、国家レベルの教育行政が大きく誤ることを回避しようというのが現行法のねらいです。これが現行法の第一のメリットです(大きな失敗の回避)。
これに対して、政府提出の改正案は、上意下達を徹底させようとするトップダウン型のもので、そういうブレーキがはずされています。いわば保険が利かない。これは私から見ればこれはデメリットですが、ある特定の価値観に基づく教育を全国レベルで実現しようという人たちにとってはメリットです。トップダウン型でマニュアルを徹底させたフランチャイズチェーンのようなものを構想しているのでしょう。
確かに、成功を約束された、誰にも納得のできる、絶対に正しいと自信を持って言える教育があれば、それでもよいかもしれません。

改正案の特徴について

そこで問題はその内容なんですが、二つの傾向が特徴的です。一つは道徳教育で、政府案の(教育の目標)第二条に五項目出てきます。
もう一つは、法案の文面にははっきり書いてないのですが、批判や反対を排除してでもトップダウン型で押し進めたい教育政策の中身に関わることです。法案では直接には(教育振興基本計画)第十七条がこれなのですが、その中身については「政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め」とあるだけで、具体的には書いてありません。

道徳教育

道徳教育については愛国心のことばかりが話題になりますが、問題は、政府(具体的には文科省)が道徳教育の目標を決めて、それでなにかがよくなるのか、メリットがあるのかということです。
教育基本法政府案にある教育の目標は、これはそのまんま学習指導要領にある道徳の目標の引き写しです。今の親の世代が学校教育を受けていた頃とほとんど変わっていませんから、ずいぶん長い間、同じ目標で道徳教育がなされてきたわけです。ひところ話題になった「荒れる成人式」の若者たちも現在の中年世代と同じ道徳教育を受けたのです。ということは、結論はすでに出ていることになりませんか。
もっとも、だからこそ法律で定めて徹底するのだ、というつもりなのでしょう。道徳教育が上手くいっていないのは日教組の左傾教師どもが反対したからだ、というわけです。しかし教員組合の影響力とはそんなに強いものでしょうか。仮にそうだとしても、戦後60年、日教組が熱心に左翼教育をしてきたとすれば、日本はとっくに社会主義国家になっていてもよさそうなものなのに、ついにそうはなりませんでした。ということは、裏返していえば、道徳教育を熱心にやっても、それで道徳的な社会になるとは限らないのです。
むしろ私がおそれるのは、トップダウン型の道徳教育がなされることで、かえって人々の道徳に対する感覚が形骸化しないか、ということです。とくに「公共の精神」、「伝統の尊重」、「愛国心」は、異論を排除するときのタテマエに使われがちです。ちなみに、いま話題の「やらせミーティング」は「公共の精神」に反する不道徳な行いですが、それをしたのは熱心に道徳教育を進めてきた側である文科省の官僚です。どうも彼らには「公共の精神」とはなんたるものなのかがわかっていないようです。
子どもたちが、こういうご立派なタテマエをいいながら平気でそれを裏切る大人の姿を見て育てば、ああそうか「公共の精神」とか「伝統の尊重」とか「愛国心」とか言っていれば、たいていのことは大目に見てもらえるんだ、うまい言い訳のタネだな、と思って育つようになるのではないかと思います。結果として、小ずるい人間が増えそうな気がします。これがトップダウン型国定道徳教育のデメリットです。
メリットはないのか、と一晩考えてみたのですが、政府案の掲げる教育の目標は現行の学習指導要領によってすでに行われていることばかりですから、なにかメリットがあったとしても、最善の場合でも現状以上になることはちょっと考えられないんです。

学校制度

次に、謎の教育振興基本計画については、国会に提出された法案の文言だけにそってみると回りくどい説明になりますので、この法案の元ネタである中教審答申も参考に、考えられているだろうプランについての予想をものすごく単純化してスケッチしてみます(現政権の教育再生会議も発想としてはこの延長線上にあります)。
中教審答申やその他の関連資料で見る限り、政府の目指す教育改革とは、表面的には、画一的な教育より競争原理を導入して個性ある学校を、ということになっています(この通りの文言ではありませんが、要約するとそういうことです)。
その内実はまことに単純で、学校教育は企業の人材養成の下請けになりなさい、ということです。実は、これまでの教育政策にもそうした側面はあったし、それも必要な側面ではあるのですが、近年、大企業の人材に対する要求が変わってきたため、えげつないことになっています。
平たく言うと、学校教育を松竹梅の3コースに分けるということです。松は官庁・大企業の上級管理職コース、竹は一般企業の末端管理職と技能専門職コース、梅はフリーター・派遣社員コース、です。 にわかには信じ難い話ですが、こういう教育制度にしてくれ、と財界が申し入れているのです(この点について詳しくは、熊沢誠能力主義と企業社会』岩波新書をご覧ください)。
その結果、どういうことになるか。
改正案(学校教育)の項の第六条2はこうなっています。

前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。


教育基本法は、教育をする側について定めた法律であるはずですのに、ここには「教育を受ける者」について「学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めること」という規定があります。これは事実上の義務として言われることになるでしょう。
もちろん、これは学校でそのように教えることを定めているわけですが、この法律でいう「学校教育」を受ける以前の人、現在の制度であれば小学校の新入生については、学校ではどうしようもありませんよね。
どうすればよいのか。そこで改正案で(家庭教育)について定めた第十条をご覧ください。

父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

ここに書いてありました。
つまり、1年生に「学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めること」ができるよう教える「第一義的責任」があるのは、学校ではなくて実際には親(その子の保護者)です。
したがって、新入生で「学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めること」が出来ないものは、「教育を受ける者」として不適格であると見なされかねない。そしてそうした評価の責任は家庭に帰せられる、そういう懸念が生じるのです。
平たく言えば、親がダメだからあの生徒はどうしようもない、ということを、これからは堂々と、正しいこととして言えるようになるのです。
つまり、松竹梅のどのコースを選ぶかは自由です。ただし、松コース希望者は学校入学以前から家庭でしっかり教育しといてください、入学後も塾に通って予習・復習が出来ない子は置いていきます、ということです。
これが出来ないご家庭の子どもは、その子がたまたまその時に持っていた学力に応じて竹コースか、梅コースへ振り分けます。
振り分けるといっても、小学校段階で入試をするわけにもいかないので、各ご家庭に選ばせるわけですが、松コースの学校をいちばん少なくし、梅コースの学校をたくさんつくれば、自然と振り分けがきくんです。
松コースの学校は地域に一つしかないとします。そうすると、たいていのお子さんにとって徒歩による通学は困難になります。遠隔地まで子どもを通わせるには、大きくなってからは交通費、小学校低学年のうちは場合によっては送り迎えが必要です。こうすればお金や時間に余裕のないご家庭は、自然と松コースを諦めます。
これで、学校には個性が出来ますよね。幼児期から教育に熱心なご家庭のお子さんが集まるエリート校と、親はそれほど教育熱心ではないけれどもまあまあ出来る子の集まる中堅校と、とにかく義務教育だから仕方なく学校に行くという子どもの集まる底辺校と、三つの個性が生まれます。
画一的な教育より個性ある学校を、というスローガンはこういう意味です。
そうでないなら、なぜ「学校の個性」というのでしょう? 「子どもの個性」というのが本当ではありませんか?
この政策のメリット・デメリットは、立場によって分かれます。
企業の採用担当者にとっては、出身校でその人間を判断できるので、仕事がしやすくなります。出身校の松竹梅によって初任給から給与にも格差が付けられますから、人件費の節約にもなります。正社員は松コース出身者のみとし、竹コースは出来高払い、梅コースは派遣会社から買いたたけばいいのですから、たいへん便利です。
親御さんがインテリで、塾や習い事にも通わせてもらえるそこそこ豊かなご家庭のお子さんにもメリットはあるでしょう。小中一貫や中高一貫のエリート校に入れば、受験であまり苦労をしなくてもすむようになるはずです。
それ以外の人にとってメリットはあまりないと思います。とくに、平均以下の収入のご家庭に生まれ育って、向学心をいだいてしまったお子さんには辛いことになるだろうと思います。
以上、やや言葉足らずですが、私がこの改正案に懸念を表明している理由のいくつかをご説明しました。

追記

やはり言葉足りずのところがあったので、追記します。
上に述べたような、松竹梅コースについてですが、これも一つの選択肢であって、もし人間の善意を信じ切るなら、松コースで教育された人たちは道徳教育もされるわけですから、将来、立派な社会のリーダーとして活躍し、竹・梅階層にも多大の恩恵をもたらしてくれるという可能性はゼロではありません。その場合は、竹・梅階層にもメリットがあることになります。おそらくこれを発案した人たちはそうした社会をイメージしているのでしょう。
私がこれを問題にしているのは、こうした教育政策のプランが、ごく一部の人たちにより密室で作成され、それに対する批判が事実上不可能であるという点にあります。
教育基本法改正案にはこうあります。

 (教育振興基本計画)
第十七条 政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない。
地方公共団体は、前項の計画を参酌し、その地域の実情に応じ、当該地方公共団体における教育の振興のための施策に関する基本的な計画を定めるよう努めなければならない。

「基本的な計画を定め、これを国会に報告する」とあります。つまり、国会には報告されるだけであって、それが適当か不適当か、審議されなくてもよいことになっています。
松竹梅構想は、教育における平等という観点から不適当だというだけではなく、実際にはエリートの育成もあまり上手くいかないだろうと私は思っていますが、これとは違う、もっと別なプランが出てくるかもしれません。その場合でも、やはり密室で決められ、それを批判することは、「不当な支配」(改正案第十六条)だということにされてしまいます。
これでは日本の教育は、一部の官僚と政治家の思いこみによって引きずり回されるはめになりかねません。
行政にフリーハンドを与えることは、官僚とそれをコントロールする政治家が、まったく合理的で、道徳的にも非の打ち所のない判断をするという、ありそうもない前提に立たなければ、怖くてできるものではないでしょう。
そこで、人間は間違えることもある、ということを前提につくられた現行法の方がまだましと考えて、政府性善説に立つ改正案に反対しているわけです。