如何なるか是れ仏

私の読書の時間は非常に短い。
毎日の通勤電車のなかと、トイレの中だけである。
以下、食事中の方は読まないでいただきたい。
尾籠な話で恐縮だが、私のトイレは長い。図体が大きいもので大便の時など出すものが多いうえ、なかなか出きらないのだから仕方がないが、30分くらいトイレに籠もっている時もある。この時間を無駄にするのはもったいないから、新聞や本を持って入る。新聞は大便をひり出す間に読み終わるし、本も結構なページ数がはかどったりする。下痢や便秘に苦しんでいる時など、薄い本一冊読み終えてしまったこともある。
さて、最近の読書のテーマとして気にかかっているのが「大乗非仏説」である。原始仏教大乗仏教の関係をどう考えるべきか、大乗経典は釈尊の教えを伝えているのか、これがお坊さんなら有無を言わせず言いくるめて信じさせてしまえばいいわけだが、信じさせられる立場からは疑義が多い。そう簡単に、ハイそうですかと言えないものがある。
この間こんなことがあった。
周知の通り大乗経典は釈尊没後、釈尊の説法を模して創作された布教用パンフレットであるが、しかし、龍樹、世親らインドの論師たちも、中国や日本の祖師たちも、これを金口直説の記録として疑っていなかった。すべてを釈尊の教えと信じていたからこそ、どの経典を主にして仏教を捉えるかで激しい論争も起きた。つまり、多くの人にとって大乗経典は聖典であったわけだ。
さて、話は私の腹具合のことになる。自宅でくつろいでいる時、便意を催した。ん?これは大きいのが出るな、と感じたものだから、書棚から文庫版の仏教概論『バウッダ』という本を取り出した。

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)

この本は詳しいうえにコンパクトで(特にトイレで読むのに)便利にしているのだが、さて、これを持ってトイレに入ろうとした矢先に、私の心にある迷いが生じた。
大乗経典は現代の歴史研究から見れば創作物とはいえ、多くの先人たちにとって、それ自体が信仰の対象となるほど聖なる書物であったはずだ。経典の注釈である「論」もまたそれに準じて聖なる書物と見なされていただろう。今、私が手にしているこの本も、現代の碩学が心血を注いだ研究の成果であろうから、これもまた神聖なものではないのか。仏の教えに迫ろうという熱意の結晶であり、釈尊の仏法の一端を明らかにしている書物である以上、この本もまたその尊さを分有していると見なすべきではないのか。
そう思うと、本を持ってトイレに籠もるというのは、先人たちに対してなんだか不敬であるような気がしてきたのだ。
ところがその時ふと、何を血迷ったのか「雲門屎橛」の公案を思い出したのである。

雲門、因みに僧問ふ、「如何なるか是れ仏」。門云く、「乾屎橛」。

仏とは何か?と問われた雲門和尚は「ウンコである」と即答したではないか。仏書を持ってトイレに入っても仏罰は当たるまい、と不信心な私はタカをくくったのであった。「乾屎橛」をどう訳すべきか議論があるようだが、答えた人が雲門だけにウンコだろうな、などと不埒きわまりないことまで考えた。
そして晴れ晴れとした気持ちでトイレに入り、般若経典の成立のあたりを読み返しながら気張ること小一時間、大脱糞して直腸は空、という境地をたっぷりと味わい、パンツとズボンを上げるために中腰に立ち上がった。
その時である。
解脱ならぬ脱糞の余韻に浸っていた私は、いささか呆けていたのだろう。本を持っている手でズボンのベルトを直そうとしてしまった。ポロリと手から離れた本は、当たり前のように便器のなかへ。
便器のなかにはたった今、私がひりだしたばかり大便がドーンととぐろをまいていた。

「如何なるか是れ仏」。
門云く、「乾屎橛」。

雲門和尚の大喝がどこかから聞こえてきたような気がした。

無門関 (岩波文庫)

無門関 (岩波文庫)

もちろん、迂闊なだけで煩悩にまみれた凡夫である私がこれで大悟するはずもなく、泣きそうになりながらあわてて本を拾い上げた。幸いにも本には買った時に書店さんが巻いてくれたカバーがそのままにしてあったので、それをはずせば新品同様とはいかないまでも、微かにシミが残る程度の被害ですんだ。
執着する心を捨てるとは、なかなか難しいことである。