アリストテレスの知慮4あるいはペリクレス2

アリストテレスが『アテナイ人の国制 (岩波文庫 青 604-7)』で、ペリクレス裁判員手当制度について「その結果、常にしかるべき人々よりもむしろ凡俗な人間がこれに選ばれようと熱心に籤を抽くので悪くなったと非難する人もいる」と書いていたが、この「非難する人」とは師プラトンのことだったのではないかと思えてきた。というのも、プラトン国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)』には次のように言われているからだ。

「民主制国家が善と規定するところのものがあって、そのものへのあくことなき欲求こそが、この場合も民主制を崩壊させるのではあるまいか?」
「民主制国家は何を善と規定しているのですか?」
「〈自由〉だ」とぼくは言った。「じっさい、君はたぶん、民主制のもとにある国で、こんなふうに言われているのを聞くことだろう−−この〈自由〉こそは、民主制国家がもっている最も善きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのは、ただこの国だけである、と」
「ええたしかに」と彼は言った。「そういう言い草は、じつにしばしば人々の口にするところですね」
「では、いま言いかけていたように」とぼくは言った。「そのようなことへのあくことなき欲求と、他のすべてへの無関心が、ここでもこの国制を変化させ、僭主独裁制の必要を準備するのではないだろうか?」
「どのようにしてですか?」と彼はたずねた。
「思うに、民主制の国家が自由を渇望したあげく、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任にある人々があまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者たちをけしからぬ連中だ、寡頭制的なやつだと非難して迫害するだろう」

プルタルコス(『英雄伝』)によれば、このなかで「たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき」とあるのが、ペリクレスとその一派のことを指しているのだという。プラトンペリクレスの名を記していないので、うがった見方だなあと思っていたけれども、アリストテレスの記述と合わせて考えると、民主制の腐敗に警鐘を鳴らすプラトンペリクレス派を当てこすったというのもありそうな気がしてきた。
それはともかく、アリストテレス倫理学で言う知慮を、ペリクレスという具体的な政治家のイメージを通して理解してみようという試みは頓挫しつつある。

してみれば結局、知慮とは「人間にとっての諸般の善と悪に関しての、ことわりを具えて真を失わない実践可能の状態」であるほかはない。
〈中略〉
こうしたところに基づいてわれわれは、ペリクレスとかそういったひとたちを知慮あるひととなすのである。彼らは、すなわち、彼ら自身にとっての、またひとびとにとっての、もろもろの善の何たるかを認識する能力のあるひとびとなのだから−−。「家政・経済にたけたひとびと(オイコノミコイ)だとか「国政にたけたひとびと」(ポリティコイ)だとかわれわれの考えるのも、まさしくかくのごときひとびとにほかならない。

この『ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)』中の一文を手がかりに、アリストテレス自身のペリクレス観を知ればなんとかならないかと思って、あれこれ読んでみたが、アリストテレスは意外なまでにペリクレスに手厳しい。これ以上突っ込んでもどうも収穫は期待できないような予感がする。
そこで「われわれは、ペリクレスとかそういったひとたちを知慮あるひととなす」という文章をもう一度ながめてみると、これはペリクレス一人のことを指しているではなく、また、アリストテレス一個人の考えのみによるのでもなく、一般に政治活動の実績から世評の高い政治家たち、という意味だと察せられる。そうであるならば、なにもアリストテレスの冷淡な記事のみに依拠する必要はない。

プルタルコス英雄伝』のペリクレス

プルタルコスは時代が降って帝政ローマ時代の人だけれども、アテナイで生まれ育ったギリシア人で、その『プルタルコス英雄伝〈上〉 (ちくま学芸文庫)』はプラトンアリストテレスのものはもちろん、複数の史料を用いてペリクレスの人物像を描いているから、世評を知るには適当だと思う。
若き日のペリクレスは、エレアのゼノンやアナクサゴラスに学んだ知的でプライドの高い青年だったようだ。はじめは政治に距離を置いていたが、やがて貴族派の有力政治家キモンの対抗馬として、民衆派のリーダーへと押し上げられていく。
弁論術に優れていたことはプラトンの対話編にあるとおりだが、「演説については慎重を極めて、演壇に登る時にはいつでも神々に、その時々の問題にそぐはない言葉がうっかり出て来ないように祈った」というから、才覚にまかせて弁じたわけではなさそうだ。時に適い、事に当たるに相応しい言葉を選ぶというのも知慮の徳の一つではないかと思う。
ペリクレスはその政治生活において、キモンをはじめ幾人かの政敵やライバルと覇を競ったが、その時々の民意を敏感に察知して政争を勝ち抜いた。これが単なる大衆迎合ではないのは、周知の如くアテナイには陶片追放の制度があり、有力者でも身の処し方を誤ると政治生命を断たれたからである。アテナイの政治家にとって大衆迎合はいわば制度上の必然であった。
しかしペリクレスは、弁論術と政略によって政敵たちを一掃してからは、大衆迎合から強力なリーダーシップへと政治スタイルをガラリと変える。

彼はもはやこれまでのペリクレスではなく、民衆の自由になったり、風のように変わり易い大衆の欲望に容易に迎合することはなかった。ああの穏やかで、ある程度骨なしになった、いわば花やいだ甘い調子の音楽のような民衆指導のやり方から転じて、貴族政・王政的な政策を強く前面に打ち出して、右顧左眄せず〔国家の〕最善に向かって真直ぐに施策を進めた。たいていの場合は民衆を説得と教化によって納得させた上でこれを導いたが、時としては非常に嫌がるのを手綱を引き締めて強引に前を向かせ、〔国家の〕利益となる方法に進ませた。
〔中略〕
アテナイのように大きな「帝国支配」を握っている大衆には実にさまざまな感情が芽生えるのは当然であるが、ペリクレスただ一人が個々の問題を正しく処理する能力を備えていた。多くの場合に大衆の希望と恐怖を舵のように操り、大衆の気持ちが高ぶっている時はそれを鎮め、消沈の時はそれを慰め励ました。

自ら海軍を率いて植民政策を推進し、アテナイに富を蓄積した。これはアリストテレスが「国家を海軍力の方向に向かわしめ」云々と言っていたのと符合する。そして戦争や植民地経営で得た富で神殿建築などの公共事業を興し、多くの市民がその恩恵にあずかれるように再分配を行った。古代小帝国の指導者としては立派な業績だ。
制度上は民主制だが、実質上は独裁だとも評されたようだ。

ペリクレスがこのような勢力をもち得た原因は弁論の力だけではなく、トゥキュディデスが言っているように、誰が見ても明らかなように贈賄にこれっぽっちも動かされず、金銭〔の誘惑〕にうち克っていたこの人の生き方に伴う名声と信頼であった。

それなりに毀誉褒貶のあった人のようだが、権勢を誇りながら汚職に手を染めず、私腹を肥やさず、トゥキュディデスが誉めそやすのも当然という気がする。しかしこれは「知慮」の徳とは違うだろう。
もしかしてこれかなと思う逸話は、戦争に関するものである。
ペリクレスアテナイ軍の将軍の一人としても活躍したが、その作戦は慎重そのものだったようだ(「軍隊指揮の面ではなかんずく安全を旨とすることによって名声を得た」)。ペリクレスは戦死者追悼の演説をしたことでも有名だが、実際の戦闘では冒険はせずに、従軍した市民を死なせなかったことを誇っていたという(業績を問われて「それは市民の誰一人として私のせいで黒い喪服をつけずに済んだことである」と言ったという)。
ある時、トルミデスという将軍が勝ちを急いで、時宜を得ない戦争を始めようと民会に諮った。

ペリクレスは、民会の席上彼を引き留め思い止まらせようと試み、あの有名な言葉、すなわち、ペリクレスの言に従わずとも、最も賢明なかの助言者さえ待たば過ちを犯すことはあるまい、それは時である、という言葉を口にした。言った当座はそれ程人気を博したわけではなかったが、その後数日のうちに、コロネイア付近の戦いで敗れてトルミデス当人が死に、多くの優れた市民も戦没したとの報せが入り、この事がペリクレスに対して好意と共に、思慮深い愛国者だという大きな名声をもたらした。

訳文の「思慮深い」が、アリストテレスの言う「知慮(フロネーシス)」と一致するかどうか、原典で読まない私にはわからないのだが、状況判断に秀でた人という印象を得た。