アリストテレスの知慮6アーレントの解釈

ペリクレスはひとまずおいて、徳としての「知慮(フロネーシス)」についての諸先達の見解をながめてみる。

アーレントの解釈

アーレントは「文化の危機」において政治的判断力について次のように言っている(引用は『過去と未来の間――政治思想への8試論』p299)。

ギリシア人はこの能力をフロネーシスすなわち洞察力と呼び、それを政治家の第一の徳あるいは卓越と見なし、哲学者の知恵から区別した。この判断する洞察力と思弁的な思考の違いは、前者はわれわれが共通感覚と通常呼ぶものに根ざすのに対して、後者は絶えずこの共通感覚を超越する点にある。共通感覚−−フランス語では示唆的にも「良識」(le bon sens)と呼ばれる−−は、共通世界であるかぎりでの世界がもつ本性をわれわれに開示する。われわれの厳密に私的で「主観的」な五感やそれらの感覚与件が、われわれが他者と共有し分かち合う非主観的で「客観的」な世界に適合しうるのは、この共通感覚のおかげである。判断することは、他者との世界の共有を可能にする、最重要ではないにしても一つの重要な活動様式である。

引用文中「ギリシア人」というのは、もちろんアリストテレスのことである。
通常、アーレントの(政治的)判断力論と言えば、カント『判断力批判』の解釈から導き出されたものとして語られる。もちろんそれはアーレント自身がそうしたのだからもっともなことだが、同時に政治的判断力がアリストテレスの「知慮(フロネーシス)」のことでもあるとすればどうだろうか。
カント政治哲学の講義 (叢書・ウニベルシタス)』に付されているベイナーの解釈的試論(「ハンナ・アーレントの判断作用について」)には、アーレントの判断力論について、いくつかの疑問が呈されている。

カントとアリストテレスを対比することによって、次のような非常に深刻な問が生じる。第一に、注視者が判断力を独占するのであろうか、それとも政治的行為者もまた判断作用の能力を働かすのであろうか。もし後者の場合なら、判断力の負担は行為者と注視者とにどのように分配されるであろうか。第二に、没利害性が判断力の決定的な尺度であろうか。それとも思慮のような他の尺度も等しく不可欠であろうか。

第一の問い、政治的判断力は誰のものか、については、それはペリクレスを範例とするような優れた政治的行為者に第一義的には属している能力である、と考えるのが妥当だろう、と私には思われる。注視者は、プルタルコスに沿って眺めてきたアテナイのケースの場合、アテナイの市民たちがそれにあたるわけだが、現実には彼らは「知慮(フロネーシス)」を発揮しなかった。アーレントがカント美学を踏まえることで注視者(市民)を判断力の主体としたのは、民主主義社会への要請だったのではないかと思われる。アリストテレスもやはり、その諸徳を市民への要請として語っているように思う。
ベイナーの第二の問いについては、前に引用したように「文化の危機」でアーレント自身が「ギリシア人はこの能力をフロネーシスすなわち洞察力と呼び、それを政治家の第一の徳あるいは卓越と見なし」たと断言しているのだから、政治的判断力はギリシア的文脈ではフロネーシスである。ペリクレスが称讃されるのは、自分一個人の利害や功名心を離れて政治を指導したと伝えられることによるのであって、アーレントの言う「没利害性」とは、アリストテレス的に言えば「自分を含む全体にとって最善を目ざす」とほぼ同義であろう。
ベイナー自身も「文化の危機」を引いて、なぜアリストテレスではなくカントなのかとぐたぐた考えているが、アリストテレスを先ず念頭に置けばごく自然なことのように思われる。アーレント個人の思想形成という観点から見ても、ヤスパースのもとで博論を書くまではハイデガーにしごかれていたわけだから、アリストテレスはしっかり身に付いていたのではないか。彼女はカントをアリストテレス的に読みかえたのだ、と思われる。
ただし、ベイナーがぐたぐた問い返すのにも一理ある。ベイナーはカント哲学について次のような指摘をしている。

思慮は明らかにカントによって実践理性から締め出されていた。その理由はカントの道徳哲学と深く結びついている。カントの道徳哲学と政治哲学は多くの点で相互に緊張関係にあるが、しかしカントの思慮の拒否は、その政治思想の中にまで持ち込まれ、その結果カントは経験を政治的判断力にとって全く無関係なものとみなしている。それは、政治が経験的幸福にではなく、自明で議論の余地のない権利に関わる、という理由による。

引用文中ではアリストテレスの名前は挙げられていないが、ベイナーがカントと対比しているのがアリストテレスであることは文脈から明らかである。
アリストテレスにとって倫理学政治学は一体のものであるが、カントにとってはそうではない(「相互に緊張関係にある」)。これは和辻哲郎も指摘していたことである。
アーレントのように、カントにアリストテレス的な知慮、ポリスにおける市民の徳を読み込むには、道徳と政治の関係についての、カントとアリストテレスの見解の差異を無視しなければならない。
和辻もまた『人間の学としての倫理学 (岩波文庫) [ 和辻哲郎 ]』で「カントの道徳哲学がその最も深い内容において我々の意味の「人間学」となっていることを主張」し、カント倫理学アリストテレス的契機を読み込もうとしていた。和辻は自らの見解に近い側面を「深い」と言い、政治学(国家学)に包摂しきれない側面を「表面に現れた限りにおいては「主観的道徳意識の学」と見られ得る」とするが、「深い」に対比してつかわれる「表面」という言葉は、価値の高下を含意している。
はたしてどちらが深いか、表面的かということは、容易に決めがたいように思われる。