アリストテレスの知慮5あるいはペリクレス3

参考のためにちょっと寄り道したつもりだったのが、だんだんペリクレスという政治家の人物像の方が面白くなり、アリストテレスなどどうでもよくなりつつある。
とはいえ、アリストテレスが「われわれは、ペリクレスとかそういったひとたちを知慮あるひととなすのである」と言ったのは事実であるから、ペリクレスの事績をたどったのも無駄ではないはずだ(と思いたい)。
ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)』には知慮の働きについて次のような例も挙げている。

同じひとが知慮あるひとたると同時にまた抑制力のないひとたること、こうしたことはやはり不可能である。なぜなら、すでに示されたごとく、知慮あるひとは、同時にまた倫理的性状におけるすぐれたひとなのである。のみならず、ひとは単に知っていることによって知慮あるひとたるのではなくして、それを実践しうるひとたることによってそうなのであるが、抑制力のないひとというのはこのような実践のできないひとにほかならない。(時として、一部のひとびとが、「知慮はあるのに抑制力のないひとだ」というふうに考えられるのも、こうした事情に基づく。)けだし、怜悧とか利口とかいうものは上述のような仕方で知慮とは異なったものなのであって、すなわち、怜悧はことわりという点にかけては知慮に近似的であるが、しかし「選択」のいかんを含意しないものなる点において知慮とは異なるものなのだからである。

これなども、個人生活の節制や自律のことでもあろうが、同時に『プルタルコス英雄伝』の伝える次のようなことにも当てはまるのではないか。

市民たちがアテナイのこのような偉大な国力と幸運にすっかりお調子づいて、エジプトをもう一度制圧しようとか、ペルシア帝国の沿岸部〔の反乱〕をけしかけようとか言っても、それに同調しなかった。

ペリクレスは「市民の衝動に道を譲ら」なかった。

ペリクレスはこのような〔遠国への〕ちょっかい出しを抑え、余計な口出しを制して、兵力の大部分を現に保持するものの保全に向けた。
〈中略〉
ペリクレスアテナイの勢力をギリシアに限ったのが正しかったことは、その後の出来事が証言を与えている。

時々の状況を的確に判断し最善の方策を実行する、知慮とはそういうことのようである。

ペリクレスの没落

頭は切れるは、弁は立つは、身辺は潔癖で、状況判断にすぐれ、実行力もある、と無敵かのように思えたペリクレスだが、その晩年は失脚する。それも国策捜査とか情報操作とか、そんな込み入った話ではない。
ペリクレス失脚の経緯は、えっ?そんなことで、と思うほどあっけない。
ラケダイモン人の遠征軍がアテナイに迫ったとき、ペリクレスは籠城戦で対抗した。

ペリクレスには、〈中略−敵の大軍、の意−〉に対して戦いを挑んで国家そのものの存亡を賭けるのは恐ろしいことに思われ、戦おうとする者や敵の仕打ちに我慢のならない人々をなだめて、樹木は枝葉を払われたり伐り倒されてもすぐに生えてくるが、人間はたおされると再び得るのが容易ではない、と言った。

この逸話は『孫子』の一節を連想させる。

主は怒りをもって師を興すべからず、将は慍りをもって戦いを致すべからず。利に合して動き、利に合せずして止む。怒りはもってまた喜ぶべく、慍りはもってまた悦ぶべきも、亡国はもってまた存すべからず、死者はもってまた生くべからず。ゆえに明君はこれを慎み、良将はこれを警む。これ国を安んじ軍を全うするの道なり。

プルタルコスはこの時のペリクレスの対応を暴風に襲われた船の舵取りに喩えている。ペリクレスとしては沈着冷静に為すべきことに取り組んだ。
けれども、運悪く、としか言いようがないと思うのだが、この時、アテナイに疫病が流行し大勢の市民が死んだ(ペリクレスの家族・親族も幾人も亡くなったらしい)。ペリクレスの反対派に扇動されたアテナイの民衆は、これをペリクレスの責任に帰した。

自分に対して激怒したアテナイ市民をペリクレスはなだめかつ励まそうと試みた。だがこの怒りを鎮めることも思い直させることもできず、遂に彼らはペリクレス反対の票を手にとって民会を制し、軍事指揮権を剥奪した上罰金を課した。

ペリクレスはその後、他に適切な指導者が見当たらないことに気づいたアテナイ市民の懇請を受けて一度復権するが、傾き始めた国運を回復させるには至らず、ほどなくして死んだ。プルタルコスアテナイを襲った疫病に彼もかかっていたのだとしているが、落胆のあまり気力・体力が急激に衰えたように私には思われた。
「その時歴史は動いた」風に言えば(音楽スタート)、優秀な指導者を衆愚政治によって葬り去ったアテナイはその後、衰退の一途をたどりはじめました。プルタルコスはこう記しています。

ペリクレス死後の情勢はたちまちアテナイの人々に彼の人柄を感得させ、誰はばかることなく彼を追慕させた。彼の生前には、自分たちの影を薄くするとしてその実力を厄介に感じていた人々も、彼が他界するとすぐに他の弁論家や民衆指導者たちをあれこれ試してみて、ペリクレス程に威厳の中に節度があり、穏和のうちにも尊厳さのある人柄というものは何びとにも備わっていないということを、改めて認識しなければならなかった。〈中略〉
彼亡き後の国情には悪がそれ程の力と嵩をもってはびこってしまったのである。

ペリクレスの能力は認めながらもその政治には辛辣だったアリストテレスも、「ペリクレスのいた時代はまだよかったが」とその後のアテナイの凋落を嘆いています。パルテノン神殿に代表されるアテナイの黄金期を築き、演出したペリクレス、その絶頂と没落は、現代のわたくしたちに何を語りかけるのでしょうか。今夜もご覧いただき、ありがとうございました。