ハンス・ヨーナスのグノーシス論4

ハンス・ヨーナス『生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)』第十一章「グノーシス主義実存主義ニヒリズム」、グノーシス主義の特徴を素描し終えたヨーナスは、いよいよハイデガーとの比較に取りかかる。

古代と近代における反ノモス主義

まず、おさらいのために前回引いた文をもう一度引く。

グノーシス主義の個人が熱望したのは、全体から自分にあてがわれた部分を演じることではなく、自らであること、本来的であること、「真正に(authentich)」実存することだった。彼が服している帝国の法則は、外からの暴力による命令であり、万有の法則、コスモスの運命は彼にとってこれと同一の性格をもっていた。その運命を地上で遂行しているのが世界国家だった。これによって全体それ自体の概念がそのすべての側面において、すなわち自然法則として、政治法則として、道徳法則として、打撃を受けたのである。(ヨーナス、p395-p396)

このようにヨーナスは、グノーシス主義の特徴である「親和的なコスモスという理念の喪失による人間と世界の疎外関係」は、世界帝国によるポリスの相対的地位低下と重ね合わせて見せた。

法という理念、ノモス〔法、規範〕という理念が掘り崩されることによって、グノーシス主義の反コスモス論のもつニヒリズム的要素が顕著になるような倫理的帰結が生じる。(ヨーナス、p396)

ニーチェの「神は死んだ」に引っかけてグノーシス派の「ニヒリズム形而上学的基盤を定式化」するなら「コスモスの神は死んだ」とでも言うべきだろうとヨーナスは言う。

ニーチェにとってニヒリズムの意味は、「至上の価値からその価値が奪われる」ということであり、この価値剥奪の原因は「私たちは、彼岸を設定したり、『神的』で本物の道徳であるような、それ自身で存在する事物を設定したりする正当性を、いささかも有していないという洞察」である。この文面を神は死んだという言葉と合わせて考えるならば、「ニーチェの思考における神およびキリスト教的神という名は、超感覚的世界一般を示すために用いられている。神とは、さまざまな理念と理想の領域に与えられた名である」というハイデガーの確認は正しいと言えるだろう。この領域からのみ「価値」の是認がなされるのだから、この領域の消滅、すなわち「神の死」は、至上の価値から実際に価値が奪われることを意味するだけでなく、義務を課す価値一般の可能性が失われることをも意味している。ふたたびハイデガーニーチェ解釈を引用すれば、「『神は死んだ』という言葉が意味しているのは、超感性的世界が有効な力をもっていない」ということである。(ヨーナス、p397)

「超感性的世界が有効な力をもっていない」ということは「逆説的な意味において、これはグノーシス主義の立場にも当てはまる」とヨーナスは言う。グノーシス主義においては、もちろん神はいるが、われわれ人間は偽の神たる創造神デミウルゴス支配下にあって、真の神は世界を完全に超越している。この超越は、この世界の中にあって、あるいはこの世界に関わるものとして、比較にならないくらいに優れているという意味ではなく、全く世界と関わらないという意味での超越である。

この超越は感性的世界の本質ないし原因ではなく、むしろその否定であり廃棄である。デミウルゴスとは異なったグノーシス主義の神は、全面的に他なる神、疎遠な神、知られざる神である。(中略)世界に対する規範的な関係をもたない超越は、効力を失った超越に等しい。言い換えれば、自分を取り巻いている現実に対して人間がもつ関係という観点からすると、この隠れた神はニヒリズム的な発想にもとづくものなのである。この神からはいかなる法も生じない−−自然に対する法〔法則〕も、したがってまた自然秩序の一部である人間の行為に対する法も生じない。(ヨーナス、p397-p398)

これはまったく、ドストエフスキーの描くロシアのニヒリストたちを連想させる。「神がなければすべてが許される」というセリフは『カラマーゾフの兄弟』の次兄イワンのものだったが、『罪と罰』のラスコーリニコフにも、『悪霊』のキリーロフ、あるいはスタブローギンにも同様の傾向がある。そんなことを思っていたら、ヨーナス自身が次のように書いていたので驚いた。

ちなみに、その実践的な帰結は放縦主義的であるか、あるいは禁欲主義的であるかである。前者は過剰をつうじて、後者は節制をつうじて、いずれも自然への服従に反旗を翻す。前者は、すべてが許されているということから、ときには、まったき自由を守るために物怖じせず何でもやり遂げるという、まさしく積極的な使命を作りあげる。(ヨーナス、p400)

「すべてが許されている」! 実にドストエフスキー的である。このくだりでヨーナスはグノーシス主義について語っているのか、ドストエフスキー文学について語っているのかと戸惑うほどだ。放縦主義はスタブローギン、禁欲主義はキリーロフが当てはまるか、などと脱線したいところだが、この後に厄介なくだりがあるので自粛する。
グノーシス主義の反コスモス・反ノモス主義、一切の法則・法制・規範への反逆は、「自己の真正な自由の主張」に結びつく。これはわかりやすい話の流れである。厄介なのはこの後だ。「とはいえ、注意しなければならないが」とヨーナスは言葉をはさむ。

この自由は「魂」(プシュケー)の問題ではなく、「精神」(ブネウマ)の問題である。魂は、身体が自然法則に合うように設えられているのと同様に、道徳法則に合うように設えられている。魂はそれ自体、デミウルゴスないしは天球によって生み出された自然の秩序の一部であって、それとは異質なブネウマ、すなわち実存の規定不能な内的核を包んでいる。(ヨーナス、p400)

グノーシス主義にとっての真正な自由の主体は、創造者によって本質を規定された「魂」(プシュケー)ではなく、規定不能な「精神」(ブネウマ)だというのである。
さて、いよいよヨーナスはハイデガーに切り込む。

ここで、ハイデガーの議論を比較の俎上に載せることができるだろう。ハイデガーはその著『ヒューマニズムについて』において、理性的動物(animal rationale)という人間の古典的な定義に異議を唱えて、この定義は人間をアニマリタス、すなわち動物性のなかに置き、ある差異をつうじて特殊化しているにすぎず、その差異もまたあくまで動物という類の内部に属する特定の性質である、と述べている。これは人間をあまりに低く位置づけるものだ、というのがハイデガーの主張である。動物(animal)という語に関してここでなされている言葉の誤用については、欄外に注記するにとどめよう。私たちにとって重要なのは、人間の規定可能な「本性」すべてが拒絶されている、ということである。それらの本性は、先行的に規定された本質に人間の実存を従属させ、したがって、人間を自然全体のなかのさまざまな本質の客観的な一部とするだろうからである。(ヨーナス、p401)

引用文後半の、「私たちにとって重要なのは、人間の規定可能な「本性」すべてが拒絶されている、ということである。それらの本性は、先行的に規定された本質に人間の実存を従属させ、したがって、人間を自然全体のなかのさまざまな本質の客観的な一部とするだろうからである」という問題提起は、自然(本性)をどう評価するかと関わってくる。それはヨーナスにとって重要なことなのだが、私には前半のハイデガー批判の方が気にかかる。そこでヨーナスは、『ヒューマニズムについて』でのハイデガーの主張には「動物(animal)という語に関して」言葉の誤用がある、と言っている。ヨーナスよる欄外の注記とは次の通りである。

ギリシア的意味での「動物」(=ゾーン)は、獣=bestiaを意味するのではなく、あらゆる「魂をもった(=生きている)存在」を意味している。それには植物は含まれていないが、ダイモーン、神々、魂をもった天体、さらにはもっとも偉大でもっとも完全な生命体それ自身である魂をもった宇宙が含まれている(プラトンティマイオス』30c、およびキケロ『神々の本性について』?、11-14を参照)。この範囲に組み込まれているからといって、人間が貶められるわけではない。むしろ反対に、理性的動物であることは万有のもつ神的な高貴さなのだから、人間はこの特徴づけによってもっとも高いものと親和的な関係におかれるのである。近代的な種々の意味合いをもった「動物性」という語が、一種の子ども騙しとして、古典的な定義に不当な形で押しつけられているのである。実際には、ハイデガーにとって人間の「格下げ」が意味しているのは、人間が動物性のなかに位置づけられることでは決してなく、むしろ人間がそもそも何らかの階層のなかに、言い換えれば存在の秩序のなかに、つまり自然一般の連関のなかに位置づけられる、ということなのである。キリスト教は「動物」を「獣」に貶めたが、実際のところこの語はただかろうじて「人間」と対立させてのみ利用されうるものだ。このような切り下げは、古典的な立場とのいっそう深い断絶の反映にすぎない。この断絶をつうじて、人間は不死なる魂をもつ唯一の存在としてあらゆる「自然」の外部に位置するようになるのである。実存主義的な議論はこの新しい基盤から発している(とはいえ、不死なる魂の代わりに「歴史性」を用いているが)。「動物」という用語の意味の曖昧さによる言葉遊びは、議論を手軽にするのには役立っているが、基盤の変更を覆い隠している。動物という語句の曖昧さはこの基盤の変更の相関物にすぎない。その結果この言葉遊びは、その議論が相手にしていると称している古典的立場と実際には対決していないのである。(ヨーナス、p470)

引用ばかり長くなったので続きはまた。年内に終わるだろうか?