グノーシス騒ぎ

ハンス・ヨーナス『生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)』第十一章「グノーシス主義実存主義ニヒリズム」、ばたばたっと切り上げたのには、当面の必要がなくなったから。
最初のきっかけは、中村雄二郎悪の哲学ノート』のドストエフスキー論を読んでいて、そこでドスエフスキーの作品世界をグノーシス主義と関連させていたことだった。中村氏が参照しているハンス・ヨナス『グノーシスの宗教』が手元にあれば一発解決だったのだけれども、もっていたはずの本がどうしても出てこない。
そこで仕方なく、ヨナスのグノーシス論の輪郭だけでもつかもうと『生命の哲学』に収録されている論文を読み始めた。読んでみるとこれは非常に重要な論文であることがわかったので、何事も勉強と思って読み続けていた。
なかなか見つからない『グノーシスの宗教』邦訳にこの論文が掲載されているかどうかだけでもわかればなあ、と思いながら、先日まで読んでいたわけだが、そちらの方はひょんなことから解決した。
島薗進スピリチュアリティの興隆―新霊性文化とその周辺』という本を何気なく開いたら、ヨナス『グノーシスの宗教』について「現代の実存主義との対比という基本的なモチーフを携えながら、グノーシス主義の神話的世界の徹底した内在理解を試みたハンス・ヨナスの『グノーシスの宗教』は、西洋思想史の古典というにとどまらず、広い比較の視座を含んだ比較宗教論、比較思想論の名著ともいえるだろう」というコメントともに、次のような引用があった。

ニーチェは、「神は死んだ」という言葉のなかにニヒリズム的状況の根底を指摘したが、彼の言う神はまずキリスト教の神だった。もしグノーシス派に自らのニヒリズム形而上学的基盤をこのように要約せよと求めたならば、彼らは「宇宙の神は死んだ」と答えるしかなかったであろう−−宇宙は神としては死んだ、すなわち神的ではなくなり、それゆえわれわれの生を導く星を与えてくれなくなった。(島薗、p221)

これは訳語の選択こそ違え、間違いなく『生命の哲学』収録論文の次の一節だろう。

ニーチェニヒリズム的状況の根源を「神は死んだ」という言葉で表わしたが、その際彼はまずもってキリスト教の神を念頭に置いていた。もしグノーシス派がそれに合わせて彼らのニヒリズム形而上学的基盤を定式化しようとしたならば、彼らが言えるのは「コスモスの神は死んだ」ということだと答えただろう。つまり、コスモスの神は神としては死んだ−−それは私たちにとって神であることをやめ、私たちの生に方向づけを与えなくなったのである。(ヨーナス、p396-397)

すなわち、邦訳『グノーシスの宗教』には、若くしてグノーシス研究者としてデビューしたヨナスが、第二次世界大戦を生き延び、戦後になって自らグノーシス論の背景にあった前期ハイデガー主義の問題性を批判的に剔りだした「グノーシス主義実存主義ニヒリズム」が含まれていたのである。
半ば予想していたことではあったけれども、やはりあらためて驚いた。
以前の日記にはこう書いた。

博識をもって知られた中村雄二郎氏は当然このことは知っていただろうに、『悪の哲学ノート』でヨーナスのグノーシス主義研究を取り上げた際に、現象学の「げ」の字もハイデガーの「は」の字も挙げていなかったということにも驚いた。

このように書きつけた時点では、中村氏は知っていたはずだろうというのは予想でしかなかったのだが、島薗氏の著作にふれたお陰で、私の予想は裏付けられた。
もっとも、中村氏がヨーナスの現象学者としての履歴にふれなかったのは、中村氏のグノーシス主義への関心が『アイオーン』に代表されるユンググノーシス論にもっぱら向けられていたからなのかも知れず、その点でこの大家を責めるつもりはない。
ただ、私が気にしていたのは次のようなことである。中村氏がドストエフスキーを解釈する上でグノーシス主義に注目し、そのグノーシス主義の大枠を確認するにあたって、まずヨナス『グノーシスの宗教』を参照していること、このこと自体はそうあってしかるべき手続きにすぎないけれども、問題は中村氏が確認したところのヨナス『グノーシスの宗教』におけるグノーシス像は、ヨーナス自身が明らかにしているように「実存主義」(ここでは『存在と時間』で示された現象学的人間論)が投影されたものであるということ、そしてそのことに中村氏が自覚的だったのか無自覚であったのかが判然としないということだ。現象学の「げ」の字もハイデガーの「は」の字も挙げていない以上、無自覚であった可能性が高いように思うのだがどうだろう。
もし、この邪推が当たっていれば、グノーシス主義を参照しながらドストエフスキーを読むという作業に見かけほどの新味はないということにならないか。カミュ滝沢克己ドストエフスキー論とどう違うのか、ということになる。
ところで、持っていたはずの『グノーシスの宗教』、さんざん探したあげくに出てこなかった。そのかわりに訳者の一人、秋山さと子先生による『ユングとオカルト (講談社現代新書)』が出てきた。この本は題名こそ「オカルト」と銘打っているが実質上、グノーシス論になっている。どうやら学生時代にこの本を読んでいて、その印象から『グノーシスの宗教』も持っていたつもりになっていただけだったようだ。呆け中年としては、自らの記憶のあやふやさにもショックを受けた。
雨がみぞれになってきたようなので、そろそろ帰宅します。