ハンス・ヨーナスのグノーシス論6

昨年末からハンス・ヨーナス『生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)』第十一章「グノーシス主義実存主義ニヒリズム」を読んでいた。もう読み終わったのだけれども、自宅のパソコンが壊れて感想を書き付けられないまま今日に至っていた。
初めに「古代と近代における反ノモス主義」と題された節のおさらいをしておく。
ハイデガー人間性と動物性を峻別することで「人間の規定可能な「本性」すべてが拒絶されている」のだと指摘したあと、次のようにしめくくられていた。

本質を超えて自らを自由に投企する実存というこの発想には、世界に属さないブネウマは魂を超えた否定的存在であるというグノーシス主義の理解といくらか類似したものが認められる。いかなる本性ももたないものはいかなる規範ももたない。自然的なものの秩序−−たとえば創造の秩序−−に属するもののみが、一つの本性をもつ。一つの全体が存在するところにのみ、法もまた存在する。グノーシス主義者の侮蔑的な理解においては、このことはコスモスという全体に属しているプシュケーには当てはまるが、いかなる秩序にも属さないプネウマティコス(精神的人間)は、法を超えており、善悪の彼岸にある。自らの「知」のもつ力によって彼自身が法なのである。(ヨーナス、p401)

「自らの「知」のもつ力によって彼自身が法」であるような「彼」とはハイデガーのことでもあろう。
ヨーナスのハイデガー批判の眼目は、このプネウマティコスの傍若無人さに向けられている。
この批判が、ハイデガーに即して妥当かどうかは棚上げにしておく(そもそも私ごときにそれを判定する能力はなさそうだし)。
ただ、ハイデガーに同情的な木田元も『ハイデガーの思想 (岩波新書)』では、彼のナチス加担について「思いあがり」ということを挙げている。

フライブルク大学学長就任にあたってハイデガーは、ヒトラーに適切な献策をおこない、かつて宗教改革の時代にメランヒトンが果たしたような「ドイツ民族の教師」の役割を自分が果たしうると信じていたのであろう。この時点で彼が責められるべきだとすれば、現実政治の力学についての無知とその思いあがりである。(木田元、前掲書、p188)

哲学者が政治を指導するなど、プラトン以来、成功した試しはないのだ。政治と哲学の関係は包括的な「指導」よりも、むしろプラトンの師、ソクラテスのようにトピックスごとの批判的関係であるべきではないのか、などと思う。
閑話休題。ヨーナスが注目するのは人間の「被投性」である。グノーシス主義ハイデガーに共通する、反コスモス的・反ノモス的自由は、この被投性に由来する、とヨーナスが捉えていることは明らかである。これは第5節「現在を欠いた時間性」でも繰り返し指摘される。

私の知るかぎり、この用語(「被投性」−引用者)は元来グノーシス主義的である。(中略)すなわち、生命は世界のなかへ、光は闇のなかへ、魂は肉体のなかへ投げ入れられている、というのである。この用語が表しているのは、私に加えられた暴力、私を問答無用に私が現在いる場所に置き、現在そうである私にする暴力であり、また私が作ったわけでもなく、私が従うべき法とは別の法をもつ世界に、私を見いだすという受動性である。(ヨーナス、p403)

このように投げ捨てられた存在にとって、現在(現実)には意味も価値も、コスモスもノモスもない。現在(いま・ここ)には「私が従うべき法」はないからである。

もしも(プラトンにおける善や美のように)価値が存在の直観のうちに見いだされず、意志の投企として設定されるならば、実際には実存は、死を目標としてたえず続いてゆく未来へ向かうよう運命づけられている。決意のためのノモスを欠いたままのたんに形式的な決意性は、無から無へと向かう先駆となる。(ヨーナス、p408)

後にヨーナスが世代間倫理や有機的自然観の復権を唱えるようになるのは、こうした省察があってのことだったのだろう。
それはともかくヨーナスは「決意のためのノモスを欠いたままのたんに形式的な決意性」という辛辣な言葉で、旧師ハイデガーとの訣別を宣言したのである。
ヨーナスの「グノーシス主義実存主義ニヒリズム」はこのあと、第6節「無関心な自然」があるが、私の当面の関心からはそれるので割愛する。
以上、見てきたように、ヨーナスはグノーシス主義のうちにハイデガー的な実存主義と共通するニヒリズムを見いだした。「親和的なコスモスという理念の喪失」という言葉で言い表されていたものもこれに当たる。ハイデガー的な実存の自由は「反コスモス的・反ノモス的自由」であり、それを「被投性」という人間理解に結びつけている。また、そのような意味での自由の主体の慢心も指摘された。
しかし、ヨーナスの議論には誰でも気づくだろう素朴な疑問も浮かぶ。若きヨーナスはハイデガーの影響下にあり、その現象学存在論の方法でグノーシス主義を解釈した。『存在と時間』における人間理解をヨーナスに倣って「実存主義」と呼ぶならば、ヨーナスのグノーシス主義論はもともと実存主義的なのである。すなわちヨーナスは、実存主義的に理解されたグノーシス主義実存主義を比較して、そこに共通項を見いだしているわけだが、それは似てくるのが当たり前ではないか、と思われる。
もちろん、こうした疑問についてヨーナスは最初から「私はその手続きにある種の循環が存することに気づいている」と断っている(ヨーナス、p377)。
この論文の眼目は、むしろその「循環」にこそあるのだろう。思想史・文化史において、ある視点・方法が、ある事柄をよく説明するとき、両者の間には共通する背景なり世界観なりがありはしないか、と考えてみるべきなのだ。ヨーナスはそのことを自らの業績を題材に検証して見せてくれた。それはよくある自分語りとはまったく次元の違う作業であって、その点に感銘を受けた。
ヨーナスのグノーシス主義論は、博識の大家によるものだけあって、日ごろ不勉強な私にはたいへん学ぶところが多かった。ただし、私がこの論文を読んだのは、グノーシス主義とは何か、ということではない別の動機に導かれたものではあったが、その個人的な関心をも大いに満たしてくれるものだった。そのことについては、いずれまた時間に余裕のあるときに書き留めて、賢者の御批判を仰ぎたい。
もっともいま現在「はてなの更新を許さない市民の会」の妨害にあっているものだから、いつになることやら。