ハイデガーのおさらい

今日の午前中は妻と冷戦状態だったので、以前、自分でメモしたものを読み返してハイデガーのおさらいをした。
ヨーナスは『生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)』で、『ヒューマニズムについて』でのハイデガーの主張には「動物(animal)という語に関して」言葉の誤用がある、と言っていた。

ギリシア的意味での「動物」(=ゾーン)は、獣=bestiaを意味するのではなく、あらゆる「魂をもった(=生きている)存在」を意味している。それには植物は含まれていないが、ダイモーン、神々、魂をもった天体、さらにはもっとも偉大でもっとも完全な生命体それ自身である魂をもった宇宙が含まれている(プラトンティマイオス』30c、およびキケロ『神々の本性について』?、11-14を参照)。この範囲に組み込まれているからといって、人間が貶められるわけではない。むしろ反対に、理性的動物であることは万有のもつ神的な高貴さなのだから、人間はこの特徴づけによってもっとも高いものと親和的な関係におかれるのである。近代的な種々の意味合いをもった「動物性」という語が、一種の子ども騙しとして、古典的な定義に不当な形で押しつけられているのである。実際には、ハイデガーにとって人間の「格下げ」が意味しているのは、人間が動物性のなかに位置づけられることでは決してなく、むしろ人間がそもそも何らかの階層のなかに、言い換えれば存在の秩序のなかに、つまり自然一般の連関のなかに位置づけられる、ということなのである。キリスト教は「動物」を「獣」に貶めたが、実際のところこの語はただかろうじて「人間」と対立させてのみ利用されうるものだ。このような切り下げは、古典的な立場とのいっそう深い断絶の反映にすぎない。この断絶をつうじて、人間は不死なる魂をもつ唯一の存在としてあらゆる「自然」の外部に位置するようになるのである。実存主義的な議論はこの新しい基盤から発している(とはいえ、不死なる魂の代わりに「歴史性」を用いているが)。「動物」という用語の意味の曖昧さによる言葉遊びは、議論を手軽にするのには役立っているが、基盤の変更を覆い隠している。動物という語句の曖昧さはこの基盤の変更の相関物にすぎない。その結果この言葉遊びは、その議論が相手にしていると称している古典的立場と実際には対決していないのである。(ヨーナス、p470)

「ヒューマニズム」について―パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡 (ちくま学芸文庫)』の該当箇所は次の通り。

最初のヒューマニズム、つまりローマのヒューマニズムも、そしてそれ以来現代に至るまでに現れたあらゆる種類のヒューマニズムも、人間の最も普遍的な「本質」を、自明なものとして前提している。人間は、アニマル・ラティオーナーレ〔理性的動物〕と見なされるわけである。この規定は、たんにギリシア語のゾーオン・ロゴン・エコン〔ロゴスヲ持ッタ生キモノ〕のラテン語訳であるにすぎぬのではなく、むしろ一つの形而上学的な解釈である。人間のこうした本質規定が誤りであるというわけではない。けれども、この本質規定は、形而上学によって制約されている。その形而上学の限界ばかりでなく、その形而上学の本質の由来が、ところが実は、『存在と時間』において、疑問視され問われるのに−値するものとなったのである。(ハイデガー『「ヒューマニズム」について』p36)

このくだりには訳注(66)が付いていて、その訳注を見ると、「なお、実際、『存在と時間』では、「アニマル・ラティオーナーレ」、「ゾーオン・ロゴン・エコン」としての人間規定への批判が、明確に発言されている(SZ48,165)」とある。そこでさっそく指示された箇所を見てみると、「現存在の存在をたずねる原理的な問いを妨げ、あるいはそらせてしまうもの」として「古代的=キリスト教人間学」が挙げられ、その要素の一つとして「理性的動物」が槍玉に挙がっている。

一、人間の定義としては、animal rationale(「理性的動物」)という意味で解釈されたゾーオン・ロゴン・エコン、そしてこの定義におけるゾーオンは、客体的に存在し出現するものという意味に解されている。ロゴンの方は、それがそなえている一段と高級な資質で、それの存在様相は、このように合成された存在様相とおなじく不明のままである。(ハイデガー存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)』p121、引用にあたってギリシア文字はカタカナに置きかえた)

こうした人間の定義は、「人々が従来、「人間」という存在者の本質を規定するのに急で、それの存在への問いが忘却されてきたということ、そしてこの存在はむしろ「当たり前のこと」として、ほかの被造物の客体的存在とおなじ意味で把握されてきたということを告げている」(p122)のだそうだ。
もう一つの箇所では次のように言っている。

このギリシア人が、前=哲学的な現存在解釈においても、哲学的な現存在解釈においても、人間の本質をゾーオン・ロゴン・エコンと規定していたのは、偶然であったのであろうか。この人間の定義は、後世においてanimal rationale(理性的生物)という意味で解釈されたが、この解釈は「誤解」ではないが、現存在のこの定義がそこから汲みとられた現象的地盤を蔽いかくすものである。(ハイデガー存在と時間』p353-p354)

「この解釈は「誤解」ではないが」という言い回しは、『「ヒューマニズム」について』での「人間のこうした本質規定が誤りであるというわけではない」に通じる表現だろう。この点についてハイデガーの意見は一貫しているものと思われる。また、ヨーナスが注でハイデガーを非難しながら書き付けた「「動物」という用語の意味の曖昧さによる言葉遊びは、議論を手軽にするのには役立っているが、基盤の変更を覆い隠している」という文は、ハイデガーの「現存在のこの定義がそこから汲みとられた現象的地盤を蔽いかくすものである」という表現に対する当てつけでもあるのだろう。

『「ヒューマニズム」について』に戻ろう。

人間は理性的動物であるという古来からの定義に対して、「果たして、そもそも人間の本質は、原初的に、そしていっさいをあらかじめ決定するような仕方で、アニマリタース(動物性)の次元のうちに存するのかどうか」と問う。理性的動物という定義の仕方は、さまざまな生物の一種についての特徴を定義するものであって、人間の人間性を定義するものではない、というのがハイデガーの主張である。

すなわち、そのようにすれば、人間は、決定的に、アニマリタース(動物性)という本質領域のなかへと放逐されたままにとどまるということ、しかも、たとえその際世間のひとが、人間を動物と等置せず、むしろ人間にはある種差が属することを認めるような場合であっても、やはりそうであるということ、これである。世間のひとは、原理においては、つねに、ホモー・アニマーリス〔動物的人間・アニマヲモッテ活動スル人間〕というものを考えているのであり、たとえその際に、アニマ〔呼吸シテ生キテイル低次ノ魂〕が、アニムス・シヴェ・メンス〔思考シテ活動スル高次の魂・スナワチ・精神〕として、そしてこのメンス〔精神〕が、のちには、主観として、人格として、精神(ガイスト)として、定立されるようになった場合でも、世間のひとはそのように考えているのである。このように定立することが、形而上学のやり方なのである。けれども、そのことによっては、人間の本質は、あまりにも軽視されることになり、それの由来においては思索されないことになる。(ハイデガー『「ヒューマニズム」について』p39)

このくだりが、ヨーナスの言うハイデガーの主張、すなわち「この定義は人間をアニマリタス、すなわち動物性のなかに置き、ある差異をつうじて特殊化しているにすぎず、その差異もまたあくまで動物という類の内部に属する特定の性質である、と述べている。これは人間をあまりに低く位置づけるものだ」に当たる点だろうと思う。
しかし、ハイデガーは、「たとえその際世間のひとが、人間を動物と等置せず、むしろ人間にはある種差が属することを認めるような場合であっても、やはりそうである」とも言っているので、「理性的動物」という人間の古来の定義についてのハイデガーの言い分は、ヨーナスが言うように「人間をあまりに低く位置づけるものだ」という点にあるのではなく、人間を「動物プラスα」として定義することは人間そのものを把握することにはならないのではないか、という問題提起に主眼があって、それはそれで検討にあたいすることであるように私には思われる。

しかし、一方で、ヨーナスが注(ヨーナス、p470)で指摘している「ギリシア的意味での「動物」(=ゾーオン)」についての「言葉の誤用」は、ヨーナスに一理がある。実際、『存在と時間』における「ゾーオン・ロゴン・エコン」の解釈では、ハイデガーはもっぱらロゴン=ロゴス-言葉に注目し(ハイデガー存在と時間』p354)、ゾーオンについてはとりたてて注意を払ってはいない。これはハイデガーの動物(生物)理解が、彼が仮想敵とした生物学主義におけるそれをモデルにしたことに由来し、その故の制約もあっただろうことを示唆しているのではないか、などとも思う。

ゾーオンについての、ヨーナスの説明を再度引く。

ギリシア的意味での「動物」(=ゾーン)は、獣=bestiaを意味するのではなく、あらゆる「魂をもった(=生きている)存在」を意味している。それには植物は含まれていないが、ダイモーン、神々、魂をもった天体、さらにはもっとも偉大でもっとも完全な生命体それ自身である魂をもった宇宙が含まれている。

「有情」とか「一切衆生」という言葉が連想される。生きとし生けるもののすべてであって、獣=bestiaではないのだ、とヨーナスは言う。生けるものといっても、それは現代では生物の範疇には入らない、理念上の存在にまで拡張されている。ここでは、魂をもっていることが生きているということなのだ。逆に、現代では生物と見なす植物が含まれないことにも注目したい。この違いは、動くということにあるのだろうと思う。ギリシア語で魂を意味するアニマは、アニマル、アニメーションの縁語で、動きという意味が元になっていると習ったことがある。「生動」なのである。だから「言葉をもつ生動者」が人間の定義「理性的動物」の本来の意味である。
これに対してハイデガーはどうか。やはりハイデガーの動物(生物)理解は生物学主義におけるそれをモデルにしているようだ。アニマルからダイモーン、神々、魂をもった天体を排除して、獣=bestiaと同一視したハイデガーは、人間を理性的獣とするなら、それは獣に理性(ロゴス・言葉)をプラスしただけで、人間の本性の定義にはならない上に、獣の上に人間を置く階層秩序を形成する。これこそが形而上学のやってきたことなのであり、私はそれを批判しているのだ、と言うわけだ。
ヨーナスにしてみれば、「御説ごもっともですが、それ(形而上学)はあなたがすり寄ったナチスの人種主義ともよく似ていますね」と皮肉の一つも言いたくなるところだろう。
だが、もう少し、ハイデガーの言い分を探ってみたい。
ヨーナスが魂(アニマ)を重視するのに対して、ハイデガーはロゴン(ロゴス)に注目する。
ここからが本題なのだが、今日は妻と仲直りしたのでいずれまた。