ハンス・ヨーナスのグノーシス論3

なにぶん不勉強で、グノーシス主義についてはほとんど何も知らなかったものだから、ハンス・ヨーナス『生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)』第十一章「グノーシス主義実存主義ニヒリズム」を読んで、へぇぇ、なるほどなあ、と思うことばかりでついつい写経になってしまう。

部分と全体に関する教えの崩壊

グノーシス主義における「親和的なコスモスという理念の喪失による人間と世界の疎外関係」を描き出したヨーナスは、続いて、その歴史社会的文脈に言及する。

私たちが眼前にしているのは部分と全体に関する古典的な教えの破産であって、おそらくはこの破産の社会的・政治的原因を私たちは探究しなければならないのである。(ヨーナス、p393)

学生時代に読んだH・グイエのデカルト論に「一つの文化=教養の破産」とあったのを思い出した。グイエが先かヨーナスが先かは知らないが、グイエは1898年生まれだから、1903年生まれのヨーナスとはほぼ同世代である。何か彼らには古き良きヨーロッパの終わりというような時代認識があったのかも知れない。
もちろん、ヨーナスが「古典的な教えの破産」と言っているのは、紀元2世紀頃の、ギリシア的な文化の終わりのことではあるのだが、グイエが「一つの文化=教養の破産」と言っているのが、17世紀にデカルトが直面した事態であると同時に、グイエ自身の経験も投影されているだろうことと同様に、ヨーナスにおいてもグノーシスに託して自らの時代感覚を語っているところがあるはずだろうと思う。
さて、歴史社会的文脈と関係づけて語られるや、形而上学的なグノーシス論もいきなりわかりやすくなってくる。まずは、破産した「部分と全体に関する古典的な教え」とは何か。

古典的な存在論の教えによれば、全体はその部分に先立つもの、部分よりもよいもの、部分がそのために存在しているものであって、したがって、部分は全体のうちに自らの根拠を有するだけでなく、自らの存在の意味をも有している。この公理は、古代後期においては、その妥当性を保証する社会的基盤を失っていた。そのような全体の生きた実例はポリスだった。個々人のはかない行為は、ポリスという包括的な生において、その可能性と尺度、もっと高次の持続を見いだしていた。市民は、全体から与えられた規範に沿った、徳にふさわしい振る舞いをすることで、自分自身を実現すると同時に、その行為をつうじて全体に生命を与え、卓越したものとしてそれを維持していたのである。(ヨーナス、p393)

ところが、アレクサンドロスマケドニア、その後はローマによる世界帝国の実現し、部分と全体、個人と国家の有機的な結びつきは牧歌的な思い出になりはじめたわけだ。「都市国家が政治的に後退してゆくことによって、ポリスの市民階級はその本質的な機能と精神的な位置を喪失した。新たに生まれた大国家は、それに比肩しうる関係に自らをゆだねることを拒んだ」。
ポリスというのは、例えばアテナイの場合、ソクラテス裁判に見られるように、女性や未成年は排除されたとはいえ、市民権を持つ市民が全員、議場に集まって評決に参加できる程度の規模である。現代でいえば、「国家」というより、コミュニティといった方がよさそうな規模の社会だ。だから、「親和的なコスモスという理念の喪失による人間と世界の疎外関係」という形而上学的な表現には、ポリス的コミュニティが帝国に包括されたことによって、その地位を相対的に下落させた、ということが含まれてくるわけだ。
ポリスの市民にとって、全体は身近なものだったし、全体における自らの位置も手応えのあるものだった。けれども、「世界帝国のアトム化された新たな大衆」にとって「部分は全体に対して意味をもたず、全体はその部分に疎遠」になった。

グノーシス主義の個人が熱望したのは、全体から自分にあてがわれた部分を演じることではなく、自らであること、本来的であること、「」真正に(authentich)」実存することだった。彼が服している帝国の法則は、外からの暴力による命令であり、万有の法則、コスモスの運命は彼にとってこれと同一の性格をもっていた。その運命を地上で遂行しているのが世界国家だった。これによって全体それ自体の概念がそのすべての側面において、すなわち自然法則として、政治法則として、道徳法則として、打撃を受けたのである。(ヨーナス、p395-p396)

グノーシス主義の歴史社会的背景についての、このヨーナスの描写が、歴史上のグノーシス主義にどこまで適合するのかは歴史家ではない私にはわからない。ただ、この指摘は、親和的なコミュニティがより巨大なシステムに呑みこまれ解体されたときの、旧コミュニティの成員の反応を描いたものとして読めば、それなりに今でも妥当するような気もする。
おそらくヨーナスは、ナチス台頭直前のドイツ社会の雰囲気を回想しながら考えているのではないかと推測する。