カントのアンチノミー1韓非子の「矛盾之説」

ただでさえ少ない脳みそが瞬時に蒸発するような暑さである。
だいたいカントなんて、冬場に読むのがふさわしいもの(独断)で、猛暑のさなかに読んでも頭にはいるわけがない。
ところが、福音が訪れた。『純粋理性批判』の超越論的弁証論、通勤電車のなかで無理やり読み始めたら、あっと気づいたことがある。
これ、読んだことがある。
もう二十年以上も前だが、大学の授業で「純粋理性の誤謬推理」の部分を読んだのだった。読んだといっても、自分で読んだというよりは、母校に講師で来ておられた中島義道先生に読んでもらった、と言った方が正確だけれども。中島先生は今ではすっかり大家のご様子だが、当時はまだ駅のアナウンスがうるさいとか言い出す前の、いかにも若手の新鋭といった感じで、君たち、カントを論駁できるものならしてみなさいと学生を挑発しながら、演習を進められた。
コギトは(デカルトが考えたように)実体ではなく超越論的統覚の働きによって構築されたものである、というのが中島先生が出してこられたテーゼで、この超越論的統覚とは何か?がテーマだった、ある者は身体を、ある者は想像力を、ある者は感覚を、ある者は(というか僕自身だけれども)記憶を持ち出して発表したのだが、ことごとく「それは既にカントが論じていますね」と切りだす中島先生にコテンパンに論破されるという、被虐趣味に満ちた演習だった。
いやあ、懐かしい、と思い出に浸ることでここは読んだことにして(先生、やっぱり記憶は大事ですよ)、当面の課題であるアンチノミーに向かう。
まずは、有名な純粋理性の二律背反の定義。

すなわち、ここには人間的理性の一つの新しい現象が示されている。つまりそれは、一つのまったく自然的な自己矛盾であって、そのためには誰も思いわずらったり巧妙な罠をかけたりする必要はなく、理性は、おのずから、しかも不可避的にそれにおちいるのである。(p194)

純粋理性批判中 (平凡社ライブラリー)

純粋理性批判中 (平凡社ライブラリー)

ページ数は訳本。プロのカント読みは二種類ある原書のページ数で例示する(中島先生はA版を重視しておられた)が、諸先生方のご指導も虚しく今やしがない零細業者となりはてた私にはその異同の意義もわからない。
読んだのはたったこれだけなんだけれども、一つわかったことがある。
カントのアンチノミーは、韓非子の矛盾とは重ならない。
韓非子の矛盾については以下で考えた。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20100709/1278659136
韓非子の「矛盾之説」は、統治に必要なものは何か、という議論の文脈で語られていた。賢明な君主による徳治を期待する儒家らに対して、「勢」の優位を説くのが韓非子の目的である。
儒家らは「勢」を自然の勢とみなし、暴君が権勢を握って悪政を敷くことを恐れてこれを斥け、賢君の到来こそ統治のために第一義的に必要なものだと主張する。一種のメシアニズムである(と韓非子はとらえている)。
これに対して韓非子の主張は、「勢」とは人為の勢だと言うのである。トップに立つのが暴君か明君か、それを歴史の運任せにするのではなく、誰が統治者となってもそこそこの政治がおこなえるような、コントロール可能な政治制度が望ましい。儒家らの「勢」理解では、トップが交代すると悪政か善政か百八十度変わってしまう。それも歴史上めったに現れないような暴君か名君を例にとっている。これはおかしい、というのが韓非子の尚賢論批判の要である。
そこで「矛盾之説」が出てくる。歴史上めったに現れないような暴君を恐れているのは、「勢」を人為では御しがたいもの(自然の勢)としているからであろう。それなのに、一方で、賢君であれば「勢」を道具のように使いこなせるとみなすのは、あたかも矛と盾の話のように両立しない話ではないか、と批判しているわけだ。
これは、定義を恣意的に運用していることを難じているのであって、あえて言えばカテゴリーミステイクの指摘であり、カントの言うような理性がおのずから、しかも不可避的におちいるまったく自然的な自己矛盾とは言えない。
いまだにカントはよくわからないが、韓非子の「矛盾」については自分なりに理解できたように思うのでよしとしよう。