カント『純理』のアンチノミー論の導入で、アンチノミーを理性のカテゴリーに即して列挙するとしながら、カテゴリーは十二あったはずなのに、アンチノミーは四つしかないのはなぜか、その説明が分からずに悩んでいた。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20101003/1286099403
だが、以下の本に明快な説明があった。
- 作者: 中島義道
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/08/05
- メディア: 単行本
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中島先生の解説は、以前と変わらず容赦のないもので、ボンクラ学生だったころを思い出させてくれた。
岩波文庫の訳にケチをつけながら、アンチノミー論を逐条解釈していくそのスタイルも懐かしい。
さて、私がつまずいたところは次のように解かれている。以下、ページ数は前掲書。
カントは次に、アンチノミーとカテゴリーとの関係について二つのことを確認していますが、このあたりからかすかに「こじつけ」の臭いが漂ってくる。(p62)
えっ! あれはこじつけだったのか。
このような箇所でつまずくのはバカらしいことで、カントの性格(性質?)を知ってしまえば、これほど簡単なところはない。つまり、彼は何事に関しても無理にでも辻褄を合せることが好きな体質なのです。(p64)
「このような箇所でつまずくのはバカらしいことで」って、すみません先生、僕はバカでした。
どうもカントはあまり自信のないところ、変じゃないかなあという疑いがよぎるところを、(だからこそ?)ひたすら回りくどく説明する傾向にある。この個所もその典型です。(p64)
そうだったんですか…、全然気づきませんでした。
このように、四半世紀近く前の在学中同様、バカだ間抜けだカントが読めていないと罵倒される被虐の悦楽を堪能しながら読んでいくと、バカらしいところでつまずいた私の予想も当たらずとも遠からずのようで、ちょっと安心した。
愚かな元学生が気付かなかったところは、カントがこの議論で「理性」の特徴を強調したかったということだろう。
カントによれば、われわれ人間は誰でも理性的存在者として、部分に留まらずに「絶対的全体性」を求め、条件づけられたものに満足せずに「無条件」を求める。「なぜか?」と問うてはならない。まさに、そういう自然本性を持ったものとして、理性的存在者を、そして理性を理解しなければならないのです。
(中略)すなわち、理性とは「推理する能力」なのであって、カントはこの原意を保ちつつ、それを「経験を超えたもの(すなわち絶対的全体性や無条件者)に至るまで推理する」という意味に限定したと考えられる。
理性の自然本性に基づくこの推理は、すべて十二個のカテゴリーから出発している。しかし、さまざまな推理形式のうち、カントは途中で循環したり並列的推理を重ねるものではなく、一系列を成し、しかも条件づけられたものから条件づけるものへと背進的に推理するもののみを選び出す。
なぜか? そうしなければ、われわれは一直線に無条件者に至らないからです。
(p75-p76)
おかげでなんとなくわかったような気がしてきた。
やはり、仰げば尊しわが師の恩、である。