韓非子の「矛盾」2難勢編1

難勢編の議論はもう少し複雑である。難一編では儒家に的を絞っていたのに対して、金谷治氏の注釈によれば難勢編では、墨家の尚賢論も射程におさめているようである。
難勢編の議論は大きく分けて三段構えになっている。初めに慎子の「勢」の思想を紹介し、次に賢智を重んずる側からのそれに対する反論を挙げ、最後にその反論を批判しつつ初めの「勢」の概念を修正して自らの議論を展開する。初歩的な哲学史の教科書に登場する弁証法みたいな構成である。さてはカントじゃなくてヘーゲルか!と一瞬色めき立ったが、頭を冷やそう。先入観を持って読むとロクなことはない。

慎子曰:“飛龍乘雲,騰蛇遊霧,雲罷霧霽,而龍蛇與螾螘同矣,則失其所乘也。賢人而詘於不肖者,則權輕位卑也;不肖而能服於賢者,則權重位尊也。堯為匹夫不能治三人,而桀為天子能亂天下,吾以此知勢位之足恃,而賢智之不足慕也。夫弩弱而矢高者,激於風也;身不肖而令行者,得助於眾也。堯教於隸屬而民不聽,至於南面而王天下,令則行,禁則止。由此觀之,賢智未足以服眾,而勢位足以詘賢者也。”

煩を避けるため中国語テキストをコピーしたが、もちろん語学音痴の私に読めるわけがない。岩波文庫の読み下しと現代語訳で読んでいる。
この段落は韓非子の意見そのものではなく、法家の先駆者・慎子の主張を紹介している。「飛龍乘雲,騰蛇遊霧」とはいきなり大きな喩えだが、「夫弩弱而矢高者,激於風也」はわかりやすい。弩をひく力が弱くても矢が高く飛ぶことのあるのは風に乗ったからだ、というわけだ。今の日本語で「勢いに乗る」というのと同じことだろう。同様に賢者の堯が隷属の身分で教えても民はその言葉を聴かないが、南面して王として天下に号令すれば命令は行われ、禁ずれば止む。世の中とはそういうものだ、と慎子は言う。だから、賢智では衆を服従させるのに足りないが、勢位は賢者をも屈するのに足りる。
この「勢」というのは今ひとつはっきりしないが、趨勢を見る、情勢が芳しくない、ご時勢には逆らえない、という時の「勢」でもあろう。「勢位」とするときは権勢のある地位や形勢上有利・不利という意味での「勢」でもあろう。難勢編の文脈はこの「勢」についての議論である。