眠い

夕食後、テレビをつけると選挙速報をやっていた。新聞・テレビなどのマスコミの予測通りなので、報道はアナウンス通りに社会が動いたと思ってホクホク顔だろうが、視ているこっちは実につまらない。ちょっとだけザッピングして消してしまった。
不十分ながら『韓非子』「矛盾之説」は読み終わったので、ドストエフスキーに戻るためにカントにとりかかろう(なんという迂回だ)と思いつつ、『純粋理性批判』を開くと三行で寝てしまう。寝苦しい夜にはうってつけの本だ。このペースでは読み終わるのに百年くらいかかりそうだが、積んである解説書はしばらく棚に上げておいて、今夏こそカントの本文、原書ははなからあきらめているが、せめて衝動買いした平凡社ライブラリー版『純粋理性批判中 (平凡社ライブラリー)』(岩波文庫の訳文は飽きた)の、せめてアンチノミーのところだけでも読もうと頑張っているのだが、「超越論的弁証論」という見出しを見ただけでくらくらっと眠気に誘われる。
ちょっと面白かったのは、プラトンをかばっているところだ。

プラトンの国家は、閑な思想家の頭脳のうちでしか存在することのできない夢想的な完全性についてのいわゆる顕著な実例と誤り称されて、常套句になっており、ブルッカーは、この哲学者が、君主は理念に関与しないならけっして十分の統治をおこないえないであろうと主張したことを、笑うべきこととしている。しかしながら、この思想をもっと追求して、この思想を(この卓越した人物が私たちの助けとはならない場合には)新しい努力によって明らかにするほうが、この思想を、実行不可能というきわめて惨めな有害な口実をもうけて、役立たないものとしてわきに(片付けてしまう)よりも、ましであろう。(邦訳p43)

ここでカントが引き合いに出す理念(イデア)とは、三角形のことではなく、「各人の自由が他人の自由と共存しうるようにさせる諸法則にしたがう最大の人間的自由の憲法」のことである。これには「(最大の幸福の憲法ではない、なぜなら、幸福は必ずやおのずから随伴するであろうからである)」と但し書きが付いているところをみると、ベンサムを意識した発言のようだ。
純粋理性批判』は認識論の書だとばかり思って読んでいたころにはこのくだりには気づかなかったが、ここでカントは政治哲学を語っている。

たとえこのようなことはけっして実現されないとしても、この理念はそれでもまったく正しく、この理念はこうした極限を原型としてかかげ、かくしてこの原型にしたがって人間の立法制度を能う限り最大の完全性にますます近づけてゆくであろう。なぜなら、人類がそこで停止せざるをえない最高の程度がどのようなものであるのか、それゆえ、この理念とその遂行とのあいだに必然的に残存する裂け目がどれほどの大きさであるのかということ、これは、誰ひとりとしてけっして規定することはできず、また規定すべきではないが、それは、あらゆる指示された限界を超え出ることができるのが自由というものであるという、まさにこの理由からである。(p44)

あらら、自由の定義まで出てきた。「あらゆる指示された限界を超え出ることができるのが自由というものである」。
こうしてみると、案外眠気を誘うばかりの本でもないようだ。だが、もう三行以上読んだので、今夜はここまでにしておこう。