ハンス・ヨーナスのグノーシス論2

ハンス・ヨーナス『生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)』第十一章「グノーシス主義実存主義ニヒリズム」、もう読み終わっているのだけれども、忙しくてなかなか感想を書き留められないままでいます。ぼやいていても仕方がないので、少しずつメモしていきます。
解釈があまりに上手くいくときは解釈の視点や方法と解釈の対象とのあいだに何か類縁性・共通項があるのではないか、と考えたヨーナスは、実存主義的観点からグノーシス主義を考察した自らの研究をふりかえって、グノーシス主義実存主義のカテゴリー(ハイデガーの現存在分析)でよく理解されるのであれば、実存主義のなかにもグノーシス主義的な側面があるのではないかと仮説を立てた。
そして、パスカル『パンセ』から実存主義の一側面として、人間の被投性、コスモロジカルな理念の喪失、を取り出した。

グノーシス主義の定義

そこでいよいよ本題のグノーシス主義との比較になるわけだが、その前にヨーナス以外の研究者によるグノーシス主義の特徴をメモしておきたい。
大貫隆グノーシス「妬み」の政治学』(p27-p28)によれば、グノーシスの特徴は次の通り。

グノーシス」(Gnosis)とは、もともとギリシア語で「認識」を意味するごく普通の名詞である。しかし、本書では古代末期(後二−三世紀)にローマ帝国支配下地中海世界(特に東部のシリア・エジプト地方)とササン朝ペルシア支配下のオリエント・メソポタミア地方に成立して、その後広範囲に伝播した宗教思想運動を指す。つまり、一つの歴史的概念として用いられる。場合によっては、「グノーシス主義」(Gnosticism)という表現も用いられるが、意味上の違いはないと考えてさしつかえない。どちらにしても、総称概念であって、具体的には実にさまざまな教派に分かれて展開した宗教思想運動であった。しかも、それらの教派の間では、神話的な観念や表象のギブ・アンド・テイクと人的・組織的な離合集散が繰り返されたため、個々の教派はもちろん、グノーシスという宗教思想運動全体もきわめて無定形で、明確な輪郭線が引きにくい。それにも拘わらず、あえてそのすべてに共通する人間観と世界観を最も抽象度の高い深層構造の意味で取り出せば、次のようになるであろう。
(1)人間は本来すなわち神であり(人間即神也)、人間を超える超越(神)は存在しない。
(2)しかし、その本来的人間は、可視的・物質的宇宙の彼方の「光の世界」から可視的・物質的な「闇の世界」に落下して、今現にそこで肉体という牢獄に閉じ込められている。
(3)そこからの脱出(救済)のためには、真の自己についての「認識」(グノーシス)へと覚醒することが不可欠である。

これを見る限り、キリスト教の異端というより、ほとんど別の系譜の思想という気もしないではない。
筒井賢治『グノーシス (講談社選書メチエ)』(p184)で紹介されているグノーシス主義の定義もメモしておく。

?反宇宙的二元論
?人間の内部に「神的火花」「本来的自己」が存在するという確信
?人間に自己の本質を認識させる救済啓示者の存在

さて、ヨーナス『生命の哲学』に戻る。

グノーシス主義における人間と世界の不和

グノーシス主義と「実存主義」を比較するにあたって、ヨーナスは「グノーシス主義の熱狂的な空想は、実存主義における幻想をもたないさめたあり方にはそぐわないように思えるし、そもそもグノーシス主義の宗教的性格は、ニーチェが現代のニヒリズムを規定する際の本質的な非宗教性、すなわちキリスト教以降に位置する非宗教性とそぐわないように思える」と両者の違いも指摘している。
大貫はグノーシスを「一つの歴史的概念として用いられる」と断っており、筒井もグノーシスを時代を越えて適用することに異を唱えていた。こうした異論は、おそらく既にとなえられていたのだろう。ヨーナスはそれを承知であえて「グノーシス主義についての包括的理解」を「仮説として前提する」。そして「その際、グノーシス主義の体系がもつ多様性はすべて、そこから共通のものを抽出するためには、無視されねばならない」(ヨーナス、p387)とも言う。つまり、グノーシス主義の「熱狂的な空想」と「宗教的性格」が捨象されるということだろう。
したがって、以下に述べるヨーナスのグノーシス論は、思想史的研究としてはかなり乱暴なものだということを自覚した上で、実存主義と比較するために、あえてする議論だということになろう。
ヨーナスがグノーシス主義と「実存主義」に共通する特徴として第一に挙げるのは「徹底的な二元論的気分」である。

それはグノーシス主義的態度全体の根底にあるとともに、その多少なりとも体系だった、きわめて多種多様な表現に、一貫して行き渡っているものだ。情熱的に受け取られた自己体験および世界体験というその第一次的な人間的基盤のうえに、分節化された二元論の教えは存在しているのである。この二元論は人間と世界の二元論であり、それと並行して世界と神との二元論である。それは補い合って一つの全体を形づくる二元論ではなく、対立する全体からなる二元論であって、じつは同じ一つの二元論である。(中略)あるいは逆にこう言うこともできる。世界と神の二元論という超越的な教えは、その経験的な基盤である人間と世界の不和という内在的な体験に由来している、と。(ヨーナス、p387)

少しざっくりいくと、ヨーナスは「実存主義」(「親和的なコスモスという理念の喪失による人間と世界の疎外関係」)と共通するグノーシス主義の「徹底的な二元論的気分」は、「人間と世界の不和という内在的な体験」を「経験的な基盤」とするのだとしている。

そうだとすれば、何よりもまず存在しているのは、人間と人間を取り巻くもの、すなわち世界とのあいだに絶対的な裂け目がある、という感情である。客観的な教えの形で説明されているのは、まさにこの感情なのである。(ヨーナス、p388)

この、人間と世界とのあいだに「絶対的な裂け目がある、という感情」は、グノーシス主義の神学的側面、宇宙論的側面、人間学的側面のそれぞれにおいて次のように説かれる。
1.神学的側面

神的なものは世界とは疎遠であって、物理的宇宙には関与しておらず、真なる神は絶対的な彼岸にあって、世界を通じては啓示されず、暗示されることさえないのであり、したがって知られざるもの、まったき他者であり、世界内のいかなる類比によっても知られえない、

2.宇宙論的側面

世界は神と疎遠であり、神と疎遠な存在そのものであって、世界は神の創造物ではなくもっと劣悪な原理によって創造されたものであり、世界はその法則に従っているのだ、

3.人間学的側面

人間の内的自己、プネウマ(「魂(Seele)」=プシュケーと「精神(Geist)」)は世界の一部ではなく、自然の創造物でもなければ、自然の支配に服しもせず、世界の内部にありながらも、世界の外部でそれと対をなしている知られざる神と同様に超越的であって、世界のカテゴリーによっては知られないものである、

以上、番号は引用者(t-hirosaka)が便宜的に付けた。
これは大貫の挙げていた特徴では「(2)しかし、その本来的人間は、可視的・物質的宇宙の彼方の「光の世界」から可視的・物質的な「闇の世界」に落下して、今現にそこで肉体という牢獄に閉じ込められている」、筒井の紹介していた定義では「反宇宙的二元論」に当たる側面をさらに詳しく展開したものだろう。
さて、「知られざるもの、まったき他者」である神は、物理的宇宙・自然的世界に関与しておらず、創造者ではない。この自然・宇宙(コスモス)の創造者は「劣悪な原理」デミウルゴスによって作り出された。デミウルゴスが「知られざるもの、まったき他者」である神から「引き継いでいるものと言えば、まさに活動の力のみだが、その活動には思慮も善意も欠いている。こうしてデミウルゴスは無知と情熱にもとづいて世界を創造したのである」(p389)。

世界が露わにしているのは、支配と強制への意志に発する暗い暴力、それゆえ悪意をもった暴力である。精神を欠いた意志こそこの世界の精神であって、この精神には理解も愛もなじみがない。宇宙の法則は神の知恵の法則ではなくこの支配の法則である。(同上)

「こうして力がコスモスの主要な特徴となるのであり」、「この万有はギリシア的なコスモスのもつ尊敬すべき性質をもはや何一つもたない」。

それは依然としてコスモス、すなわち秩序ではあるのだが、専制的な秩序であり、人間と親和的な秩序ではない。この秩序が承認されるとき、そこには恐れと侮蔑、戦慄と反抗が混在している。自然の欠陥は、秩序を欠いているという点にあるのではなく、むしろ秩序がすみずみにまで行き渡っている点にある。デミウルゴスの作品は、見てのとおり光に照らされていないのだが、にもかかわらず法則の体系なのである。コスモスの法則は、かつては人間の理性が認識活動をつうじて交信しうるそれ自体理性の表現として尊敬されていたが、いまやただ人間の自由を挫折させる強制力という姿として見られるだけである。(ヨーナス、p389-p390)

ヨーナスはこのようにグノーシス主義における「親和的なコスモスという理念の喪失による人間と世界の疎外関係」を描き出す。

神から切り離されデーモン化されたこの天空の下で、人間は自分が見捨てられていることに気づく。この天空に包囲され、その力に曝されているが、自らの魂の高貴さによってこの天空よりも優越している人間は、自分が自らを取り囲んでいる体系の一部ではなく、それに囚われた者であることを知っているのである。(ヨーナス、p391)

またもや鬼束ちひろ「月光」が頭の中で響いてくる。

I am God's child.
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?
こんなもののために生まれたんじゃない

そして、鬼束の歌声の後に次の文章が続いてもあまり違和感がないことに少しだけ驚いている。

この人間はパスカルと同じように驚愕している。見捨てられているというこのあり方に見いだされる孤独な他者性は、不安という感情に発している。不安は魂が自らの〈世界内存在(In-der-Welt-Sein)〉に対して告げる答えだが、それはグノーシス主義の文献においてたえず登場する主題である。(ヨーナス、p391)

続きはまた。