最小不幸社会

諸般の事情で仕事が思うように進まずにイライラしているので鬱憤晴らしをする。
権力者に根拠のない罵声を浴びせて日々の鬱憤を晴らすのは、金も力もない市民の数少ない娯楽である。
こんな記事があった。
http://mainichi.jp/select/today/news/20110124k0000e010067000c.html

首相は昨年6月の就任後、国会での所信表明演説は2回行っているが、年初の施政方針演説は初めて。演説では国づくりの三つの理念として、「平成の開国」「最小不幸社会の実現」「不条理をただす政治」を掲げた。
 最小不幸社会を実現するための基盤に雇用と社会保障を位置づけ、「今年6月までに社会保障改革の全体像とともに、必要な財源を確保するための消費税を含む税制抜本改革の基本方針を示す」と期限を区切って取り組む決意を表明した。

最小不幸社会の実現」、これ自体は結構なことである。
だが、管首相は自らの内閣のキャッチフレーズである「最小不幸社会」というものがなにかわかっていないのではないか。
たしか、何が幸福かは各人の追求にまかせ、社会の不幸を最少にすることを政府の役割とする、というのがその説明だったような気がする。
功利主義のモットー「最大多数の最大幸福」を逆の視点から言い直しただけで格別の目新しさはないが、「市民社会」という言葉は知っているが実物を見たことのない日本で、総理大臣として自由主義的な市民社会像を明確に宣言したという点では、さすが「市民派」の面目躍如と思わせられる。
しかし、おそらく管首相も私と同く「市民社会」の実物を見たことがないのだろう。なぜなら、管首相自身がこのキャッチフレーズの意味するところをわかっていない疑いが濃厚だからだ。
私がその疑いを抱いたきっかけは、政権の目玉政策である高校無償化に関連して、管首相が朝鮮学校への交付金の手続きを停止するよう指示したときだった。時期的に北朝鮮による韓国砲撃の対抗措置としてだとしか考えられなかったが、朝鮮学校にはその事件に何の関係も責任もないし、見せしめにしたところで外交的に何の効果も生まないのは素人目にも明らかだった。それはそれ、これはこれ、とどうして言えなかったのか。あまりのバカバカしさに不条理な印象を受けたものである。
どうしてこんな不条理なことを…と考えているうち、もしかして?と思い当たったのが「最小不幸社会」について管首相は何か勘違いをしているのではないかということだった。
もしかして、もしかすると、管首相は「最小不幸社会」を、少数者(マイノリティ)が不幸になる社会のことだと考えているのじゃないか?
まさか?とは思いたいが、管首相が最少不幸社会の実現のためとして消費税増税に熱心なのもいぶかしい。
仮に消費税が10%になるとして、低所得者にとってそれは収入の一割減とほぼ同義である。収入が一割減ったら衣食住医療などにかかる費用をその分抑えなければ生活が成り立たない。だが、高額所得者にとってはそうはならない。
まさかとは思うが、もしかして、もしかすると、管首相のめざす「最小不幸社会の実現」とは、所得の少ないものが不幸になる社会を実現したいということだろうか。
現実の社会というものには、いろいろな意味で少なき者を犠牲にして成り立っているという側面が冷厳な事実としてある。人数の少ない者、所得や資産の少ない者、情報や教育機会の少ない者、社会的支援の少ない者などなど、さまざまな少なき者の不幸がある。しかし、それを不条理と感じ、その不条理をただす政治が「最小不幸社会」に込められた思いだったはずなのではないだろうか。
言葉の表面だけ眺めて考えるとそうならざるを得ないと思うのだが、管首相には私のような政治音痴の考えの及ばぬ深い思いがあるようだ。
あいにくと私は浅薄なので、深い思いの政治家は支持したくない。