1984年の浅田彰

これから息の詰まるような繁忙期が続く予定なので、先んじて息抜きをしておこうと思い、春先に話題になっていた『魔法少女まどか☆マギカ』というアニメーションドラマを視聴。
とても面白かった。
私はこのジャンルの熱心なファンではないので、批評はおろか感想もたいしたことは言えない。
作品から直接連想したというよりも、作品から受けた刺激がきっかけとなってあれこれ考えていたら、ふと浅田彰氏の発言を思い出した。
以下、雑誌『理想』1984年8月号掲載の「流体と結晶」と題された座談会記録からメモしておく。

図式としてはほとんどホッブスなんかと近くなっちゃうわけですよね。ホッブスなんかの場合には、欲望というのは個別的な欲望であった。それがジラールにおいてはミメーシス的欲望に置きかえられている。しかし、いずれにしても、そういう欲望を持ってぶつかり合う諸個人たちのありようというのは、解きほぐしがたい矛盾をはらんだものであって、それが解決されるためには、超越的な審級の介入が要請される。ジラールの場合には、全員一致で殺されたスケープゴートというものがそうした矛盾を払う役割をはたしてくれるということになるんでしょうし、あらゆる社会はそういうスケープゴート放逐を行なっておいてそれを隠蔽するという、二重のトリックの上に成り立っているんだけれども、新約の真理においてはじめてスケープゴート自身が立ち戻ってきて、みんなが全員で自分を殺したことを許すということによって、つまり、そうやって負けるが勝ちという一枚上手のトリックを演じてみせることによって、黒ミサを白ミサに転換し、ヨハネ的平和への欲望を開いたということになるんでしょうけれども(笑)、それはほとんどホッブス的な社会契約論の構図と同じで、社会から抽出された個人、それが個別的欲望を備えたものであれ、ミメーシス的欲望を備えたものであれ、試験管の中で取り出されたような個人というものを出会わせて、それ見てみろ、そこには矛盾がある、それを解決するには第三者の介入が必要だというふうに持っていく、これは非常に反動的な抽象ではないかという気がしますけどね。

関連して、同じ座談会からやはり浅田彰氏の発言。

実際、ヘーゲルみたいに止揚していわば上から統合するのか、ジラールのように排除されて下へと穢れを背負っていくのかというのは違うでしょうけど、総じて言えば基本的に同じ構図だと思うんですよ。

もう一つ、同じ座談会から。

デリダについて言うと、ぼくはいささかアンビヴァレントで、ああやって常に意味を宙づりにしていくこと、最終的なシニフィエのプレザンスを繰り延べていくことというのは、逆に言うと、一種突き詰められた否定神学のようなところがあって、最終的なシニフィエの顕現をいわばネガティブな形で強めていくというような節もないところもないような気がするんですよね。(中略)不在であるがゆえに、より一層輝かしいものであるというか、うつろであるがゆえに、より一層戦慄的な煌きを放つというか、そういう感じになっていかざるを得ないと思いますけどね。

たぶん、読み返せば『構造と力』のどこかにも似たようなことが書いてあるのだろう。ドゥルーズに依拠して、弁証法モデルを乗り越えようとするスタンスへの是非を留保すれば、大きな見通しとしてはよくあたっているように思う。1984年で、ここまで見切っていた人はそう多くはいなかったのではないか。