韓非子の「矛盾」1難一編

カントのアンチノミーを読みなおさなければ、と思いながら『韓非子』を手にとってしまう自分っていったい…、と苦笑しながら、『韓非子』を読んでいる。
言い訳を言えば、韓非子の言う「矛盾」はヘーゲルの矛盾よりもカントのアンチノミーに似ていると、何かの本で読んだのだろう豆知識を鵜呑みにしていたけれども、はたしてそうか、と疑念がわいたためである。
韓非子』には有名な「矛盾」の逸話は二回、難一編と難勢編と二回出てくる。
難一編の文脈は儒家批判である。二言目には尭舜の治を引き合いに出して聖人待望論をぶつ儒家に対して、尭が聖人であれば舜は活躍のしどころがなく、舜が聖人であれば尭はそれに至らなかったことになる、尭が天子のときに舜が徳化を行ったのは堯舜のいずれも聖人でなかった証拠ではないか、と韓非子は言うのである。その譬えとして「矛盾」の逸話が持ち出されている。
ただ、堯と舜の関係が、いかなる盾も貫く矛といかなる矛も貫けない盾とのような両立しえない関係であるような気がしない。むしろ、ラーメンと半ラーメンのセット、いやちょっと違うか。ともかく矛と盾の譬えのように一方が是なら他方は必然的に非であるような関係に尭と舜があるかというと、どうも譬えがぴったり決まったという印象がないのである。
これは、韓非子が間違っているのではもちろんなくて、読んでいる私の側が彼の「矛盾」の譬えに二律背反を読み込んでいるからなのかもしれない。だとすると、カレーライスとライスカレーのセットのように、片方だけで足りるでしょうという話かというと、やはりそうはならない。
「矛盾」の逸話のオチは、その矛でその楯を突いたらどうなるか?と問われた商人が、自家撞着に気づいてウッと言葉に詰まるところである。
そうすると、この話のポイントは、堯と舜が両立しないということではなく、両者共に万能の帝王であるかのように言う儒家の主張に差し向けられていることになる。
もちろん韓非子も尭と舜とがいずれも明君であったことは認めている。だが、儒家が神格化するほどの万能の英雄ではなかったはずだと言いたいのだ。この英雄待望論への批判は難勢編にも共通している。