「葛の葉」伝説について

先日、プラトンパイドロス』を題材に神話や伝説についての考えを書きとめた。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20120125
そうしたところ、id:dokaishaさんからトラックバックをいただいた。
(前近代の)日本人は怪異を信じたか?
http://d.hatena.ne.jp/dokaisha/20120128/p1
そう言えば、似たようなことを以前調べて、山岡元隣『古今百物語評判』を題材にしたものを書いて某所で発表したことがあったので、それを再掲しようかと思ったが、あいにくデータが出てこない。印刷物は手元にあるのだが、自分で書いた文章をもう一度ワープロ打ちするのがなんだかおっくうになってしまった。
実は、年末から正月にかけて、折口信夫「信太妻の話」(『折口信夫全集第二巻 古代研究(民俗学編1)』中公文庫所収)を読んでいた。
 というのも、友人のお嬢さんが、お父さんの愛読する『竹原春泉 絵本百物語―桃山人夜話』を見て、そこで描かれた「葛の葉」の絵が妖怪の絵に見えない、普通の女の人にしか見えないのに妖怪だというのはどうしてか、と質問したのだという。
 困ったお父さんから「どう説明したものですかね」と尋ねられたのがきっかけだったが、はかどらない仕事と不景気から目をそむけるためには、うってつけの題材である。そこで折口を引っぱり出したのだが、必要以上に読みふけってしまった。
 挙句の果て、小学生に読ませるには理不尽なほどの長い手紙を書いた。
 そこで、dokaishaさんの日記に直接応答することにはならないけれども、この手紙を、プライバシーにさわるところを伏せてご覧に入れることで、応答に替えさせていただこうかと思う。(以下、長文です)
 まず『絵本百物語』の「葛の葉」の絵を見てみましょう。たしかにふつうの女の人に見えます。着物を着た女の人が立て膝をして窓辺に座っている絵です。この絵が描かれた時代は江戸時代の終わり頃(天保12年・1841年)ですから、着ているものはその頃の着物でしょう。
 顔をよく見ると、目は閉じていて眠っているようにも見えます。
 部屋の窓は開け放たれていて、外には菊の花が咲いています。
 床には白いものが二つころがっています。これは糸を玉にしたものと、糸の束だろうと思います。女の人は糸紡ぎ(いとつむぎ・細い糸や綿をよりあわせてじょうぶな糸をつくる仕事)か、機織(はたおり・糸から布をつくる仕事)をしていたのでしょう。仕事の途中でくたびれて、窓の外に咲いている菊の花をながめながら一休みしているうちにうとうとと眠ってしまったところを描いた絵だと思います。
 さて、この絵は妖怪の絵なのか。
 結論から先に言います。これは、妖怪を描いた絵です。
 それなら、なぜ妖怪に見えないのか。ふつうの女の人しか描かれていないのか。
 答えは二つあります。
 まず、第一の答え。この絵が妖怪に見えないとしたら、「妖怪」という言葉について、みなさんの側に思い込みがあるからです。
 次に第二の答え。江戸時代の人には、この絵を見ればそれが妖怪を描いたものだと、すぐにわかったので、これで十分だったからです。
 このあとは、説明が長くなってしまったので、もう眠る時間の子は、三、「葛の葉」伝説から読んで寝てください。

一、「妖怪」という漢字の意味

「妖怪」の絵というと、どのようなものを想像しますか?
 有名なのは、顔に大きな目がひとつだけある一つ目小僧、首の長く伸びたろくろ首というあたりではないでしょうか。一つ目小僧やろくろ首は日本ではメジャーな妖怪の姿ですが、それだけがすべてではありません。
「妖怪」は二つの漢字「妖」という字と「怪」という字を組み合わせてつくった言葉です。この二つの漢字を辞書で調べてみると、どちらも「あやしい」という意味です。「あやしい」という言葉は、よくわからない、とか、不思議だ、という意味ですね。それを二つ重ねた「妖怪」とは、とてもあやしいものや、とても不思議なものを指す言葉なのです。
 次に、「妖怪」という言葉が漢字を使ってつくられていることに注意してください。漢字とは、大昔の中国で作られた文字です。
 だから、漢字だけでつくられた言葉の意味を調べるときには、大昔の中国でどういう意味で使われたかを調べるとよいのです。そこで、その頃の中国で「妖怪」という言葉が使われたかどうか調べてみました。
 荀子(じゅんし BC.313?-230)という学者の本にありました【『荀子』「天論編」】。
 そこには、(道理にしたがって生活をしていれば)「妖怪もこれをして凶(きょう)ならしむること能(あた)わず」、(道理からはずれていれば)「妖怪も未(いま)だ生(しょう)ぜざるに凶なり」とありました。
 つまり、正しい生き方をしていれば妖怪も悪いことはできないし、間違った生き方をしていると妖怪が出なくても悪いことが起きる、という意味です。
これは私が調べた範囲では「妖怪」という漢語のもっとも古い用例です。
 では、この「妖怪」とはなんでしょうか。
 荀子が挙げている妖怪の実例は、夜空の星が墜ちること(隕石や流星)、木がこすれあって変な音を出すことでした。それらは古代中国では近いうちに悪いことが起きるしるし(前兆)だと考えられていたのです。しかし荀子は、これらは珍しいことなので不思議に思うには違いないが単なる自然現象だからおそれることではない、と書いています。
 珍しいものや不思議な出来事、これが「妖怪」という言葉の元の意味です。まず、このことを頭に入れておいてください。
 【ついでに言うと、荀子は、本当に恐ろしいのは「人妖」だと言っています。「人妖」とは悪い心を隠して立派な人のように見せかけて人々をだます人のことです。】

二、お化け

 さて、みなさんのよく知っている日本の妖怪の話にもどりましょう。
 一つ目小僧やろくろ首を思い浮かべてください。
 ああした日本の妖怪たちについて、もう一つの呼び名がありますね。「お化け」と言います。妖怪たちが一つの家に住みついているとき、そこを「お化け屋敷」と呼んだりします。
 古代中国では、あやしい不思議な出来事のことだった「妖怪」と、みなさんの知っている日本の妖怪を結びつけているのは、この「お化け」という言葉です。
「お化け」は日本語ですが、元の言葉はやはり中国で生まれた「変化(へんげ)」という言葉です。「変化」という字は「へんか」とも読みます。「化」の字の読み方が違うのは、中国の長い歴史のなかで漢字の読み方が変わったからです。
【「げ」または「け」の方がより古い読み方(呉音)で、「か」の方がその後の時代の読み方(漢音)です。呉音か漢音かは漢和辞典で漢字を調べると書いてあります。呉音で読まれる言葉は、かなり古い時代に日本に伝えられていた言葉、漢音で読まれる言葉はそれより後の時代に日本に伝えられた言葉です。さらにその後に伝えられた唐音や宋音というのもあります。ちなみに現代の中国語の発音ではもっと違います。】
 文字の読み方は時代とともに変わりましたが、意味は同じです。「変化」は、何か別のものがあるかたちに姿を変えることのことです。簡単に言えば、変わることであり、化けることです。
 この「変化」のなかでも、とくにあやしいものをさす言葉として「妖怪変化(ようかいへんげ)」という言葉が生まれました。この「妖怪変化」こそが、みなさんのよく知っている妖怪のことです。昔の日本人は「ようかいへんげ」では長すぎると感じたので、後半を省略して「妖怪」とちぢめたわけですね。逆に、前の方を省略して「変化の物」(なにかあやしいものが姿を変えてあらわれたもの)とも呼ぶこともありました。この「変化の物」をさらに省略したのが「化け物」です。だから、妖怪のことをお化けとか化け物とも呼ぶのです。
 つまり、一つ目小僧やろくろ首は、本当に目玉が一つだけの人や、首の長い人がいたわけではなく、何か別のものが、ああいう不思議な姿に化けてあらわれているのだ、と昔の人は考えたわけです。何かが別の姿に化けてあらわれていること、これが「妖怪変化」の意味です。
 ところで、この場合の、別の姿に化けてあらわれる何か別のものとはなんでしょうか。
 つまり、妖怪変化の正体は何かということですが、これには、いろいろな答えがあります。古代中国の学者のように珍しい自然現象だというのもその一つ。眠ったときに見る夢のように、人の心が造り出す幻だという答えも昔からありました。人々が忘れてしまった古い神様だという考え方もあります(これはむしろ新しい説です)。
 どれかが間違いで、どれかが正しいというわけではありません。それがはっきりとわかってしまったら妖しくも怪しくもない、ぜんぜん妖怪らしくありません。考えてもわからないから妖怪(とてもあやしい)というのです。

三、「葛の葉」伝説

「妖怪」という言葉の元の意味は、怖いとか恐ろしいものではなく、よくわからないあやしい出来事という意味でした。さらに、妖怪と同じ意味で使われる「お化け」という言葉は、何かが別の姿に化けてあらわれたもののことでした。
『絵本百物語』は、妖怪を描いた本なので、よくわからないあやしい出来事や、何かが別の姿に化けてあらわれたもの【と、江戸時代の人が思っていたこと】を描いているのです。
 だから、かならずしも一つ目小僧やろくろ首のような、めずらしい姿のお化けだけが描かれているわけではありません。
 さて、いよいよ本題の「葛の葉」の話になります。
『絵本百物語』の「葛の葉」の絵は妖怪を描いたものだと言いました。
 この場合の妖怪とは、もちろん妖怪変化、お化けのことです。
 実は、この絵に描かれている女の人、名前を「葛の葉」というのですが、彼女は人間に化けた狐だと言い伝えられているのです。だから、葛の葉はお化け、妖怪変化なのです。
 ところで、正体がばれることを「尻尾を出す」と言います。なぜ、この絵を描いた絵かきは尻尾を描かなかったのでしょうか。
 それは、この絵が描いている場面は、江戸時代にはたいへん有名だった物語の一場面なので、わざわざ説明する必要がなかったからなのです。
 もう一度、「葛の葉」の絵をよく見てください。画面右上に、ミミズののたくったような字で何か書かれていますね。こう書いてあります。
「信太杜のくずの葉のことは 稚児までも知る事なれば こゝにいわず」
(信太の森の「葛の葉」の話は、幼い子どもまでも知っていることだから、ここでは何も言わない。)
『絵本百物語』で描かれているのは、「葛の葉」または「信太妻(しのだづま)」と呼ばれる物語の一場面です。
 葛の葉の物語は、江戸時代にはたいへんな人気で、物語として読まれたほか、歌舞伎や人形浄瑠璃としても演じられました。現代で言えば、漫画化もされ、映画にもなり、アニメにもなったというようなものです。
 そのため「葛の葉」物語には、少しずつ違うさまざまなバージョンがありますが、ここでは、この物語の舞台となった大阪府和泉市の信太の森に建てられた「信太の森ふるさと館」のホームページにあるものを元にして、それに少し説明を加えながら紹介します。

 昔【平安時代、10世紀ごろ】、摂津国(せっつのくに)あべの(あべのの)(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に安倍保名(あべのやすな)という人がすんでいました。
 ある日、保名が信太の森にある神社に参詣したところ、狩人に追われ傷ついた狐が逃げてきました。かわいそうに思った保名は、狐をかくまい逃がしてやりました。追ってきた狩人たちは、獲物を逃がされたことに怒って、保名をひどい目にあわせて、深い傷を負わせてしまいました。
 傷で苦しんでいる保名のもとへ、「葛の葉」と名のる若い女がたずねて来ました。葛の葉は、かいがいしく保名の傷の手当をしました。
 やがて、保名の傷も治り、二人は夫婦になりました。ともに暮らすうち、かわいい童子(どうじ=子ども)も誕生し、しあわせな日々がすぎていきました。
 六年目のある秋の日、機織りをしていた葛の葉は、庭に咲く美しい菊をながめているうちに、ついうとうとと眠り、うっかり正体をあらわしてしまいました。童子に狐の姿を見られた葛の葉は、ともに暮らすのもこれまでと、

 恋しくばたずね来てみよ和泉なる
             信太の森のうらみ葛の葉
(大意・母が恋しければ和泉の国の信太の森を訪ねてきなさい、愛する子と別れなければならないこの身の上がうらめしい)

の一首を残して、故郷の信太の森へと去っていきました。
 保名と童子は、母を求めて信太の森を探し歩きました。森の奥深くまできたとき、保名がふと振り向くと、一匹の狐が涙を流してじっと二人を見つめていました。はっと気がついた保名は、「その姿では子どもが怖がる、もとの葛の葉なっておくれ」と声をかけました。
 保名の声に、狐は池の水に自分の姿をうつしたかと思うとたちまち葛の葉の姿となりました。
「わたしは、この森に住む白狐です、危ない命を助けてくださったやさしさにひかれ、今まで、ともに暮らさせていただきました。けれども、ひとたび狐にもどった以上、もはや、人間の世界にはもどれません。」
葛の葉は、「お母さんと離れたくない」と、泣いてとりすがる童子を諭(さと)しながら、形見に白い玉と箱を与え、最後の別れをおしみつつ、ふたたび狐の姿となって森の奥へと消えていきました。
 母の形見には、知恵を授けてくれる不思議な力がありました。この童子は、その力に助けられて学問に励み、成人してからは陰陽道の達人として天文博士に任じられた安倍晴明(あべのせいめい)だと伝えられています。

 以上が、「葛の葉」の物語の、わりあい簡単なバージョンです。
 もうおわかりだと思いますが、葛の葉がうとうととして、正体をあらわす直前の場面を描いたのが『絵本百物語』の絵なのです。
「葛の葉」と題されて、庭に菊が咲いていて、女の人がいる絵を見れば、江戸時代の人なら、ああこのあと正体が子どもに見つかっちゃうんだよなあ、とすぐにわかったのです。だからわざわざ尻尾を描く必要がなかったのです。
 なお、『絵本百物語』の巻末には、これこそ本当の話だとして安成という人の話が紹介されていますが、あれはみんなが元の話を知っていることを前提にして創作した作り話で、一種の冗談です。『絵本百物語』には、他にも創作をまじえた話があるので、すべてが昔から伝えられていたとおりだと思わないようにしてください。

四、まとめ

一、「妖怪」とは、見た目の恐ろしい、変わった姿をしたものとは限らないこと。不思議に思われる出来事、真相のよくわからない出来事のことも「妖怪」ということがあること。
二、「葛の葉」の物語は、『絵本百物語』の絵が描かれた江戸時代には多くの人が知っていたため、詳しく描かなくても見た人はすぐにわかったこと。
 以上が質問に対する答えです。納得したら、ぐっすり寝てください。

五、まだ眠くならない人のために

 まだ眠くならない人のために、もう一つ、付け加えておきます。
 絵かきが狐の尻尾を書かなかった理由として、さらに別の考えもあります。
「葛の葉」の物語の舞台となった摂津の国阿倍野、和泉の国信太は、それぞれ大阪市阿倍野区大阪府和泉市です。和泉市には信太の森が実在します。葛の葉を祀った神社もあります。物語に登場する童子、後の安倍晴明も実在した人物です。
 安倍晴明(921年-1005年)もたいへん面白い人なんですが、その説明をはじめるともっと長くなってしまうので、やめておきます。陰陽道というのは中国から伝わってきた昔の学問です。天文博士というのは、当時の政府の役職です。学問にすぐれていたため、政府の役人となったのです。たいへん頭のよい人で、人の知らないことや気付かないこともズバリと言いあてたため、世間の人からは魔法使いのように思われたのです。
 このように、実際にあった土地や人と結びつけて語られる物語を「伝説」と言います。伝説のなかには、ほとんどが作り話のものもあれば、ある程度まで実際の歴史と一致するものもあります。この「葛の葉」の伝説の場合はどうでしょうか。
 舞台となった土地や登場人物は実在しています。
 でも、狐が人間と結婚して子どもを産むというのは考えづらいですね。それではこの物語はまるっきりウソでしょうか?
 お母さんが実は狐だったというのは、何かのたとえだとしたらどうでしょう。お母さんがわが子を残して家を出ていかなければならなかったのには、特別な深い事情があった。けれども、それは決して他人に明かしてはいけない秘密の事情であったために、嘘も方便で、実は狐だったからだということにした、と、こう考えてみれば、つじつまはあいます。
 このように、秘密の事情があってお母さんがいなくなったのだとすると、葛の葉は、本当は狐ではなく人間の女の人だったことになります。江戸時代の絵かきもそう考えて、葛の葉の絵に尻尾を描かなかったのかもしれません。これが絵かきが狐の尻尾を書かなかった理由として考えられるもう一つの答えです。
 それならこの葛の葉という女の人は妖怪ではなかったことになるじゃないか、と思われるかもしれません。
 けれども、それでもやっぱり妖怪なのです。
 本当はどうだったかわからない不思議な出来事が、「葛の葉」物語の外にもあらわれてきたのに気づきませんか?
 葛の葉が狐ではなかったとしたら、どうして愛する子どもと夫を残して家を出ていかなければならなかったのでしょう?
 世間の人々は、どうして葛の葉がいなくなったことを彼女が狐だったからだと考えたのでしょう?
 謎はふくらむばかりです。あやしい、あやしい、葛の葉の物語。これを「妖怪」というのです。

六、それでもまだ寝られない人のために

 実は、狐が化けるとか、狐に化かされるとか言いますが、昔の人も狐が動物であることを知らなかったわけではありません。「葛の葉」の物語にあるように、猟師が狐狩りをしていたのです。すべての狐が妖怪変化なら、狐狩りなんて怖くて出来ません。それではどう考えていたのか。
 狐という動物自体に化けたりする不思議な力があるのではなく、狐をお使い役として使う神様がいて、その神様が狐を通して不思議なことを行なうのだと考えていたのです。すばしこくて用心深い狐は、神様の秘密の使命をはたすのに最適だと思われたのでしょう。この神様が「お稲荷さん」で、稲荷神社の門に狐の像が置かれているのはそのためです。
 だから、人間に化ける狐は、神様に仕事を言いつけられた特別な狐なのです。この特別な狐だけが不思議な力を発揮することができた。そのように信じられていました。
 これもまた、昔からすべての人がそれで納得していたわけではありません。ただ、そう信じて主張する人たちがいて、その考えが広まっていったのです。そのうちに、神様が狐に用事を言いつけるのではなくて、狐は神様の使いだと信じている人たちが、特別な方法で狐を飼いならして使っているのだと思われるようになりました。これは、狐を神様のお使いだと主張する人たちが自分たちの側から、世間の人がそう思うように仕向けたのかもしれません。詳しい事情はわかりませんが、ありそうなことです。
 そこで、折口信夫という学者は次のように考えました。狐のもつ不思議な力を使って特別な仕事ができる、と世間の人に思われていた人たちがいたとして、葛の葉はそうした人たちの一人だったのかもしれません。不思議な力や特別な仕事には秘密がつきものです。葛の葉は、童子に秘密を見られてしまった、童子はまだ子どもだからその意味はよくわからないとしても、このまま一緒に暮らしていては、いつかは秘密のすべてを知ってしまうことだろう、一族のもの以外に秘密を明かすことは一族のおきてで固く禁じられていた、そこで葛の葉は泣く泣く子ども夫と別れて故郷に帰って行った。
 葛の葉の秘密とは何か、それはわかりません。いくら考えても謎は残るのです。だから、やっぱり「葛の葉」の物語はあやしい話、妖怪談なのです。

参考文献

説経節―山椒太夫・小栗判官他 (東洋文庫 (243))平凡社。「葛の葉」物語は、さまざまに脚色されて描かれましたが、本書には印刷されたもののうち最も古いものが収められています。ただし、古文です。
折口信夫「信太妻の話」、『折口信夫全集 第2巻 古代研究 民俗学篇1 (中公文庫 S 4-2)』中公文庫所収。葛の葉伝説についての研究として代表的なもの。ただし、大正時代の論文なので、言葉づかいが古くて読みづらい。

七、もう一つ別の説明

 安倍晴明は狐使いの子か?
 たぶん、これはこじつけです。
 そもそも、歴史上の安倍晴明の父親は「保名」という名前ではありません。「安倍氏系図」(『続群書類従』巻第170 所収)などの史料によれば、晴明の父親の名は安倍益材(あべのますき)とされています。
 これまでの説明を書くにあたって参考にした折口信夫の研究でも、狐を神の使いと信じる一族が、自分たちの親戚から安倍晴明のような有名な人が出たと自慢するためにこじつけたのだろうと推理しています。
 なぜそんなことをしたのか。
 安倍晴明は占いの名人として有名でした。そして、おそらく、狐を神の使いとした一族は、占いを職業にしていた。そこで、自分たちの仕事の宣伝のために有名人の名前を引っぱり出した。
「いらっしゃい。うちの占いはよく当たります。ほら、安倍晴明という名人がいましたやろ、あの人なんかはうちの親戚ですねん。信太の森から阿倍野に嫁に行ったうちらの先祖の子どもや。それについては、世にも不思議な悲しいお話がありましてな…」
 こんな感じでPRした。つまり「葛の葉」伝説は、信太の森の占い師たちのCMだったとも考えられるのです。
 しかしながら、この説にも問題はあります。仮に、信太の森周辺に、狐を神様の使いだと信じる一族がいて、彼等が占いを職業としていたとしましょう。おそらく、彼等は、平安時代の終わりから、説教節が生まれた江戸時代の初めにかけて、近畿地方で職業的占い師の集団として活躍した、と仮定する。そうすると、そういう人たちが確かにいたという証拠は何か、ということになります。その証拠がない。つまり、これまで述べてきたことは、おそらくこうだったろうという推測であって、確かな証拠はないのです。
 確かな証拠はないとはいえ、折口説が説得力を持つのは、さまざまな状況証拠を積み重ねているからです。それでも、決定的な証拠はない。伝えられている事柄を総合すると、おそらくこうだっただろう、ということが言えるだけで、きっとこうだった、これが事実だとまでは言えない。
 ですから、決定的な証拠が出てくるまでは、同じ材料(言い伝えなどの状況証拠)から別の推測もできます。
 以下では、私自身の考えを述べてみます。
 「葛の葉」物語を思い切り単純化するとどうなるでしょうか。
 人間ではない何者かが、人間の男の妻になって、子どもを産んだけれども、何かの秘密が露見したことをきっかけにして、妻は夫と子どもを置いて元の世界に帰って行ってしまう。
 似たような話がありますね。「鶴の恩返し」、「天の羽衣」、「雪女」、「タニシ女房」や「つらら女房」というのもあります。こうした物語のタイプを専門家は「異類婚姻譚」と呼びます。「葛の葉」もこうした物語の一つだとすると、それらに共通する物語の構造のなかに「葛の葉」の秘密が隠されていると考えることもできます。
 【ちなみに「タニシ女房」は中国にそっくりの話が伝わっています。天の羽衣も類話がアジア各地にあります。こうした国境を越えて似た話が伝えられている物語を共通の構造からとらえる場合、現在の国境線にとらわれないようにしなければなりません。】
 ここから先は、文体を変えます。

 木下順二の戯曲『夕鶴』の原話ともなった「鶴女房」は、昔話『鶴の恩返し』として知られているが、物語のクライマックスは、異界のもの(異類)との契約(タブー)を破った人間の戦慄の物語である。機を織る女房の、その姿を決して見てはいけない、というタブーを破る場面は、語り方を変えればそのまま怪奇民話になる。
 二つの物語の基本パターンは次の通り。

A 異類(女)と人間(男)の婚姻
 「鶴女房」では、鶴(の姿をした精霊)を男が助け、それが縁となって二人は結ばれる。「葛の葉」では、保名が葛の葉狐を助ける。

B 異類によってもたらされた富の享受
 「鶴女房」では、女房が機を織って家を富ます。「葛の葉」では、葛の葉は傷ついた保名を介抱し、子どもを産む。機織りをしているところも共通している。働き者の主婦を嫁にむかえること、また子どもをもうけることはいずれも富(労働力)の蓄積と考えられていたことはいうまでもない。

C 人間がタブーを破る
 「鶴女房」では、機を織る姿を男が覗く。「葛の葉」では、童子が葛の葉の正体を見てしまう。

D 異類が正体を明かし異界へ去る
 「鶴女房」も「葛の葉」も人間がタブーを破ったことを責めながら、異類としての正体を顕し、異界へと去っていく。

 以上のように、「鶴女房」と「葛の葉」は、同型の物語である。なお、「葛の葉」には、「何々をしているところを見てはいけない」というタブーを設定する場面が欠けているが、童子が母親の正体に気づく場面が機織りと結び付けられていることから、おそらく元の話では鶴女房と同様、機織りをしているところを見てはいけない、というタブーがあったのではないかと思われる。
 「鶴女房」で登場する異類は「鶴」だが、「鶴女房」型異類婚姻譚というカテゴリーに含まれるのは鶴と結婚した男の話ではない。右のような物語の基本パターンを踏襲しているものはすべて「鶴女房」型と呼ぶ。「鶴女房」は代表的事例であって、日本各地に伝わる同型の民話に登場する異類は鶴とは限らず、山鳥、鴨、蛤、魚などであったりする。記紀神話豊玉姫のように鰐(鮫)である場合もある。「葛の葉」の狐もその一つ。女房の正体である異類は交換可能であり、もちろん狐でもかまわない。
 「鶴女房」型異類婚姻譚において、女に化身した精霊はみな一様に、正直であったり、親切であったりしながら貧しい暮らしを送る若者のもとに押しかけ女房として現れ、富を与えて去っていく。ここから「鶴女房」型異類婚姻譚の基本は精霊と人間との契約を伴った交換であると考えられる。
 人間と精霊との出会いは暴力的な衝突から始まる。「鶴女房」では鶴は人間の仕掛けた罠に捕らえられて傷ついているし、「葛の葉」でも狐は狩人に追われて傷ついている。人間と精霊とのこの暴力的な邂逅に和解をもたらすのが契約を伴う交換である。
 すなわち、人間の親切(罠から鶴を逃がしてやる、追われた狐を逃がしてやる)の代償として、機を織る姿を覗いてはいけない(技術の秘匿)という契約のもとに織物が人間にもたらされる。そして、人間の側の契約違反により、富をもたらした異類は人間のもとを去っていく。
 このように、「鶴女房」と「葛の葉」は、異類(女)と人間(男)の契約を媒介にした交換の物語として同じ物語の類型に属するものと考えられる。古代では女を得ること自体が富の蓄積だから、異類が女で、人間が男である点も重要である。
 「葛の葉」伝説では、陰陽師安倍晴明の出生伝説として脚色されたことにより、「鶴女房」の機織り(紡績技術)にあたるものが、知恵を授ける宝物に置き換えられている。それによって童子陰陽道を学び、家を発展させるという結末につながる。
 以上のことから、「鶴女房」や「葛の葉」などの、異類と人間の契約を媒介にした交換の物語は、知識や技術の到来についての原初的なイメージが反映されているものと考えられる。
 鶴や狐の姿に託されたものが何だったのか、現在となっては正確に知るすべはない。ただ、こうした物語を生み出した古代の社会にとって、自然の脅威や異文化との接触は、まさに暴力に満ちたものだっただろうことは容易に想像がつく。しかし、人間が自然や異文化と対立し抗争してばかりいたとしたら、文化の発展はなかっただろう。脅威を克服し、血まみれの衝突に和解をもたらした者のもとに、自然や異文化は、新たな知識や技術の発見をもたらしたのだろう。異類婚姻譚は、知識や技術が自然や異文化との和解によってもたらされたことと、その継承者の誕生を物語るものだったのではないか。

 以上が、私の結論です。

途中から文体が変わっているのは、実は、以前、ブログに書いた雪女論の応用だから。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20050719/1121931101
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20050720/1121931067
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20050721/1121931014
「雪女」を「葛の葉」と置き換えただけだが、なんだかうまくつながった。
もっとも、「鶴女房」型異類婚姻譚とひとくくりにしてパターン化してしまうことで、「葛の葉」の話の特異性が失われてしまうデメリットはある。
難しいなあ。

追記

ちょっと気になって、積ん読になっていた諏訪春雄『霊魂の文化誌』を開いたら、「葛の葉」の秘密が説明されていた。

霊魂の文化誌 神・妖怪・幽霊・鬼の日中比較研究

霊魂の文化誌 神・妖怪・幽霊・鬼の日中比較研究

民間陰陽師系の晴明伝説はきまって信太明神との関係を強調している。信太明神は現在の大阪府和泉市王子町の聖神社の別称である。平安時代の末までには、神域の信太森にちなんでこの別称が定着していた。昭和二十五年(一九五〇)には国の重要文化財に指定された。そのときに整理された神社の歴史によると、天武天皇の白鳳三年(六七五)、勅願によって渡来氏族の信太首が聖神をまつったことにはじまる。信太首は百済国の人百千の子孫である(『新撰姓氏録』)。また和泉市の旧南王寺村の人々が信太明神の氏子であった記録が村方文書として残されている(『庄屋奥田家文書』)。渡来人と被差別部落の人々が信奉する信太明神の縁起として狐の子の安倍晴明伝説はそだてられた。(諏訪、前掲書、p97)

折口信夫の「信太妻の話」、奥歯に物の挟まったような遠回しな表現があったけれど、そういうことだったのか。信太の森から遠くない場所で生まれ育った折口がこうした事情を知らないわけがないものなあ。