司馬遷の曹参評

道家の思想といいますと、何か非常に高尚で深遠な形而上学のように言う人もあれば、仙人の心得のように思う人もありますが、いずれも偏った見解だと私は思います。古代中国の思想というものは、どんなに浮世離れしていても何がしか社会思想としての側面を持っているというのが私の持論でありまして、道家思想はその典型例だと思っております。
史記世家〈下〉 (岩波文庫)』に「曹相国世家」があります。
曹参という人は、項羽と劉邦が天下を争った時代に劉邦について活躍した人ですが、戦乱の時代が過ぎて平和が訪れ政治家になってからは特に何もしなかった。何もしなかったことがたいへんよろしいと司馬遷は高く評価しています。
岩波文庫の訳文を引きます。

太史公いわく、曹相国参は、城を攻め野に戦って勲功を挙げたが、彼がこれほど多くの功をあげ得たのは、淮陰候(韓信)といっしょに戦かったおかげである。秦が滅んだのちに、侯にとりたてられ功績を評価され、ただ参だけがその名声を独占した。参は漢の相国となって静重を重んじ、それこそ完全に道家の本質に合致するものと考えた。しかも人民は秦の残酷な政治を経過した後であり、参は彼らとともに休息し自然にまかせた。それゆえに天下の人びとはみなその美徳をたたえたのである。

野田政権もかくあるべしと願うのですが、消費税増税といい、原発再稼働といい、どうして余計なことをするのか、私にはよろしくないことに思われます。
ところで、今朝の朝日新聞一面に、同紙編集委員・竹内敬二氏の署名入りのコメントがありまして、この見出しに呆れました。
「国民の不安 置き去り」(笑)。
この問題の焦点は、不安か安心か、ではないでしょう。危険か安全か、のはずです。原発はいったん事故が起きれば手の施しようがないことは誰の目にも明らかになったわけですから、不安か安心か、という感情論、印象論のレベルで議論してもしようのないことでしょう。
竹内氏は「すべての原発を動かさないのも、多くの原発をなし崩して再稼働するのも現実的ではない」というレトリックで、原発再稼働推進の姿勢をはっきりと打ち出しています(メインの記事にも「大飯の安全性を確認」と大本営発表のまま断定的な見出しが添えられています)。
しかし、危険か安全か、を問うべき問題を、不安か安心か、という情緒論にすり替える人の判断が現実的とはとても思えません。
安全というのは、この場合、百パーセント安全ということでなければ意味がない。たまに事故があるかもしれないがそれは想定外、ということでは、福島原発の二の舞ということになります。これが現実的な判断というものです。
この問題について、野田総理や枝野経産相は政治判断を強調していましたが、事故があったときにその判断の責任をとれるのか。今回の福島原発事故では、東電も、誘致した県知事も、推進した経産省も、設置当時の政権与党だった自民党もなんら責任をとらず、尻拭いに追われた管政権をスケープゴートにしただけではありませんか。
実際、専門家であるでたらめさんも頭を抱えるだけでなにもできなかったわけですから、事故が起きればどうしていいかわからないというのが本当のところなんでしょう。そうだとすれば、責任の取りようもないような判断はしない、というのが責任ある政治家の判断というものではないでしょうか。
曹参は、せっかく政権に就いたのだからと政策を進言する人たちが来ると、まあまあまずは一献と酒をすすめて相手を酔いつぶし、自分も呑んだくれていたそうですが、この問題については野田総理もそうすればよかった。そうしておいて、震災と原発事故で傷つき疲れ切った日本社会の傷をいやすことに専念すれば、後世、名宰相とうたわれただろうに、と残念に思いました。