市中の虎

震災以後、政治について語ることがすっかり嫌になってしまった。
その最大の理由が、政局報道の過熱と偏向である。偏向した政局報道の蔓延というべきかもしれない。
政局報道の偏向については説明すると長くなるので省略するが、一言でいえば、憶測をまじえた記事がニュースとして流れている。こうした情報環境下では、私のような一般市民が政治についてまっとうな判断を下すのは、事実問題としてはかなり困難だ。これについて私はまったく悲観的である。
韓非子』に市中の虎の逸話がある。
書き写すのが面倒くさいので、ネット上の中文をコピーするが、語学音痴の私は中国語は読めない。

龐恭與太子質於邯鄲,謂魏王曰:“今一人言市有虎,王信之乎?”曰:“不信。”“二人言市有虎,王信之乎?”曰:“不信。”“三人言市有虎,王信之乎?”王曰:“寡人信之。”龐恭曰:“夫市之無虎也明矣,然而三人言而成虎。今邯鄲之去魏也遠於市,議臣者過於三人,願王察之。”龐恭從邯鄲反,竟不得見。

戦国時代の魏に龐恭という人物がいて、人質となって行く魏の太子に伴って趙の邯鄲に旅立とうとしていた。龐恭は見送る魏王に「今一人の人が市場に虎がいると言ったら、王様はこれを信じますか?」と尋ねた。王は「信じぬ」と答えた。
「二人の人が市場に虎がいると言ったら、王様はこれを信じますか?」、「信じぬ」
「三人の人が市場に虎がいると言ったら、王様はこれを信じますか?」、「余はそれを信じる」
龐恭曰く「市場に虎のいないことは明らかです。それなのに、三人が言えば虎が出たことになりました。邯鄲は、魏からは市場に行くより遠いところにあります。私の噂をするものは三人以上はいます。王様にはこの点をお察しくださるようお願いします」と。しかし、龐恭が邯鄲から帰ると、王に会うこともできなかった。
こんなような話である。つまり、魏王が讒言を真に受けたことにより、龐恭は失脚したのである。
いま、はっきりとわかっているのは、原発には事故が起こりえること、そして、事故が起きたら手がつけられないということだ。一言でいえば、原発は危険な装置だということだ。
これは、夫れ市の虎無き也明らかなように、明確な事実と私には思われる。
原発は危険だ、という現実を直視した上で、危険だけれども必要悪として維持すべきだという人もいるだろうし、危険だから安全策をより強化しなければならないという人もいるだろうし、危険だから廃止しようという人もいるだろう。それはそれぞれの判断である。
しかし、この期に及んで原発は安全だと言い張るとしたら論外だ。
そして、実を言うと、上に併記した三つの意見のうち、危険だけれども必要悪として維持すべきだという意見は、その危険によって生じた被害を補うことができなければ無謀のそしりを免れない。そして、今回の事故の被害を見る限り、これを補うことなどとても出来そうもないから、必要悪論は危険を直視しているうちに入るかどうか微妙なところである。
だから、現状のままでの原子力政策を進めるとしたら、それは、3.11以降の現実を無視した世迷いごとである。
原発は安全だと言う人がいたら、同様の意見を言う人が何人いようと、その人の政治や社会についての発言は疑ってかかるべきである。
3.11の福島で明らかになった原発の危険性を認識しているかどうか、これは今後、政治家(あるいは公的に発言する人)の言動をチェックする上でのリトマス試験紙になる。
私がこの半年間で学んだことはただそれだけのことにすぎない。